石巻・南三陸・気仙沼への旅 その4

旅の三日目28日は、南三陸からBRTで気仙沼へ向かいました。往きに通った大谷海岸の道の駅のところにハマナスの群生地という看板を見つけたのがきっかです。道の駅で聞いたところ看板は震災前のものなので今はどうなっているかわからないということでした。

よく知らないみたいなので自分で探そうと思って堤防が切れているところまで歩いて行きました。歩いているうちに歩道の横にちょっとした花壇がありピンクや白のハマナスの花が見つかりました。

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そばに立札が建っており、津波にも流されずに残ったハマナスに因み植栽したものだとわかりました。

津波に流されずに頑張りぬいたハマナスがあったということを知り大変感激しました。

 

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堤防の切れたところから海岸へ下りることができました。入口には「はまなす海洋館」というホテルが建っていました。ここも津波の被害を受けました。

線路が見えますが、東北線の小牛田から南三陸を経由して気仙沼まで走っていた気仙沼線の線路でした。今は、廃線となりすべてがBRTというバスに代わってしまいました。向こうの岬のトンネルを出ると目に飛び込む美しい海を眺めるお客さんの姿が見えるような気がしました。この季節には、ピンクや白のハマナスが彩りを添えていたにちがいありません。

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ホテルの前庭は、バラやユリなどを植えこんだ庭園として整備されていましたが、その花壇の向こうに野原となった場所がありました。

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草の中にところどころハマナスのピンクの花が見えるではありませんか。津波にも負けないで生き延びたのは、このハマナスだったのでしょう。杭とロープを使ってそれとなくハマナスを守っているような気がしました。

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そばへ行くと立札がありました。かつて八戸の種差海岸でもハマナスが咲いているのを見ましたが、茅ヶ崎とか三浦海岸では自然に生えているハマナスは見ることはありません。関東では同じような落葉低木としてよく見るのは「ハマゴウ」です。ちょうど今頃紫色の花を咲かせます。こうやって実際歩いてみると、ちょっとした気候の違いで植生が変わることがわかります。

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コンクリートでできた階段のすきまから「ハマヒルガオ」と「オカヒジキ」が生えています。海浜の植物の生命力には感心します。やがてこの砂浜はハマヒルガオのピンクの花に覆われるのではないでしょうか。

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海と車の通っている道路との間に立ちはだかっているのがこの盛り土です。

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防潮堤というのでしょうか。いわゆる堤防です。約10mの高さがあるのですぐそばを通る車からは海は一切見えません。

展望台のように高くなっているところへ上がってみることができました。完成イメージという図と照らし合わせて今やっている工事の全体がようやくつかめました。

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海と反対側です。やはり同じくらいの高さに盛り土がされていてまだ工事中です。

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はまなす海洋館」と反対の方角を見たところです。こちらにはまだ高い堤防がないのでこれからどんどん積み上げていくのではないかと思われます。海が見えない海岸が三陸海岸にはどんどん増えていきます。震災後7年が経ちましたが、大谷海岸についてはようやく全体像が見えてきたというところでしょうか。

堤防が高くなれば津波が防ぎきれるのでしょうか。国土強靭化とは、堤防を高くすることなのだろうかと思うのです。f:id:yporcini:20190628115553j:plain

霧雨がぽつぽつと降っているような状態でしたが、何とか次のBRTに間に合うように停留所へ戻ってこれました。ベンチには毛糸で作った座布団が敷いてありました。冬は直接座れば冷たいので地域の人が作ってくれたのだと思います。

ちょうど同じバスに乗ったご婦人がいらっしゃいました。私が「ハマナスを見にきたんだ」というと、その方は「私のうちは、海洋館と道を隔てたところにある花屋さんの裏だから今度来たら寄ってちょうだい。」とにこやかにお話されたので、驚いてしまいました。今あったばかりの見知らぬ人にそんな言葉をかけてくださるなんて・・・じんわりと温かい気持ちになりました。

これまでも東北へ来るとよくしてもらうことがよくありましたが、またまたお土産をもらってしまいました。

(続く)

石巻・南三陸・気仙沼への旅 その3

続きです。

保健医療センターから乗った住民バスは、北上川下流に向かって左岸を河口へ向かっては走っていきます。20人くらいが乗れるマイクロバスです。乗っていた人は一人、買い物の袋を下げていたので朝一番のバスで石巻の中心部へ行き、このバスで帰ってこられたようです。この辺りには、食料品を買うような商店は見当たりませんから、車がない人、運転ができない人にとっては命を支える大事なバスなのだと思います。住民バスですから集落のあるところを縫うように走っていきます。時には山を削って造成した復興住宅が建っている小高いところにも登って行きます。前回書いた「北上小学校」もこの一隅に建設中でした。

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北上川河口部と思われます。小島も点々として本当に美しい場所です。

 

石巻の一番河口に近いところは、十三浜と呼ばれるところです。山を上り下りして浜へ下りてくるという繰り返しです。

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こういうのが十三続いているのです。来るまでは特定の場所の名前かと思っていましたが、小さな浜が十三続いている地域の名前だということがここへ来てようやくわかりました。

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十三浜では、昆布やワカメの養殖をしています。きれいな外海の波に洗われたワカメは、身が厚く最高級品。値段も他の産地の物と比べ高いです。

2012年11月末に石巻市の鹿妻地区の女性たちと交流させてもらったことがあります。その時に初めて十三浜で漁師をしている方から津波のことを聞く機会があり、十三浜というのは、特別なところだということを知りました。あれから6年も経って、ようやくその十三浜を知ることができてこれも感慨深いものがありました。

参考までに

 http://yporcini.hateblo.jp/entry/2012/12/01/123355

 

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 バスは、私一人を乗せて南三陸町との境にある「神割崎」入口へ到着しました。入口から5分くらい歩くと神割崎の看板が立つところへ着きます。ここのことは、南三陸の観光案内で知っていました。

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 ここがその神割崎です。ここは現在も石巻市南三陸町の境となっていますが、昔はその辺りが曖昧だったそうです。ある日、大きなクジラが浜に打ち上げられ、このクジラの所有権をめぐり争いがあったというのです。その時、この岩が真っ二つに割れ、クジラも二つに割れたのだとか。これは、神様の裁きだということで、この割れ目を神割崎と呼び、石巻と南三陸の境としたという伝説があるそうです。

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 石巻方向を見たところです。

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 左側の南三陸側です。

 水は透き通り岩の間をくぐり抜けて打ち寄せる波がドーンとしぶきをあげます。 岩の割れ目に2月と10月に朝日が昇るのが見えるというので、その時期にはカメラマンが大勢やってくるそうです。

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 ここは、キャンプ場もあり風光明媚な自然公園となっています。散策しようと思いましたが、お腹もすいてきたので公園内にあるレストランで「タコカツカレー」を注文しました。タコのミンチを揚げたものが載せてあります。

 お腹も満ち足りたので、さっそく探しに出ました。何を探して?と思われると思いますが、冬に南三陸のビジターセンターの職員の女性に神割崎にニッコウキスゲの群落があるという話を聞いていたので、それを見たいのもあって旅を今回の時期に設定したのです。少し遅かったのですが、ちゃんと待っていてくれました。

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 日当たりのよいところはほとんど終わっていましたがまだ健気に咲いていてくれたニッコウキスゲです。ニッコウキスゲは、山の植物だと思っていましたが、海のすぐそばで咲くというのがとても不思議だったのです。行ってみて三陸海岸は「山背」という冷たい空気が押し寄せるところだということに気付きました。冷たい霧がこの辺りを覆ってそれが、山の湿原のような環境を作り出すんだなと気づきました。この日もなんだかそこはかとなくひんやりとしていました。 

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 ウツボグサです。これも種がどこからやってきたのかはわかりませんが、美ヶ原でも見た植物ですから、山の植物です。

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 これは、「ノハナショウブ」です。湿地に育つショウブですからやはりここの環境があっていたと思われます。

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 これは、よくわかりません。松の幹から出たぶにょっとしたキノコのようなものです。以前「松露」というキノコのようなものがあることを聞いたことがあるので、それかなと思いましたが、松の根に寄生するらしいので、違うかもしれませんが、どなたか知っていらしたら教えて下さい。

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 この公園内には、いくつかの岬があって、名前が付けられています。

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「漁り火岬」「恋岬」「母恋岬」「出逢い岬」、どこも岬の松とブルーの海の色、柱状節理の岩が織りなす風景は素晴らしいです。中には「牛落とし」と名付けられている、断崖もありさすがに崖をのぞくのは怖かったです。

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 向こうに見えるのが「松島」です。ここは、ウミネコの繁殖地。白くぽつぽつ見えるのがウミネコです。「ニャアニャア」と鳴きながら飛ぶウミネコは、カモメより一段と大きく北上川の大橋の鉄橋にも飛んできていました。

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 「小浜灯台」です。岬の北側にありました。

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 北側には、懐かしい南三陸の椿島や湾の奥にホテルの白い建物もうっすらと見えていました。この辺りでとうとう雨がぽつぽつ降りだしたので、レストランに戻り雨宿りをすることにしました。

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 「神割ブルー」という名の飲み物です。町おこしに一役買っている志津川のタコは、いろんなところに登場してきます。グレープフルーツジュースとブルーハワイをベースにして炭酸で割ったものです。さっぱりとして美味しかったですが、本当に町おこしは大変だなと思いながら飲みました。ウイークデーのこんな天気ですから、キャンプをしている人も3組しかいませんでしたし、レストランのお客さんも午後のこの時間になるとだあれもいません。

 南三陸の町民バスは、4時前の出発でした。また一人かと思いきやなんと高校生の男子が2人乗りました。石巻の高校へ通っているのだと運転手さんが教えてくれました。石巻の市民バスでここまでやってきてここから町民バスで志津川の方へ帰るとか。朝だけは、ちょうどよいバスがないのでここまでうちの人に送ってもらって石巻のバスに乗り換えるのだそうです。

 私は、この日は冬に泊めてもらった民宿に予約をいれておいたので、近くで下ろしてもらいました。

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 この日の夕食です。またまたすごいご馳走です。

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電話で予約をした時に、「ウニが食べたい」と言ったのですが、「この戸倉地区は、ウニの開口がまだなんだよ。」と残念な話を聞いていたので、あきらめていたらよその地区の漁師さんから分けてもらったとのことでウニを出してくれました。

成育とか天候条件が整った日を地区で決めて獲れる日を開口と呼ぶそうです。ちゃんと漁業権がある人のみが開口の日に一斉に獲るのです。

 これで二日間食べ過ぎの日々となってしまいました。

 (続く)

石巻・南三陸・気仙沼の旅 その2

今週も旅に出たため下調べなどで忙しく2回目が遅くなりました。

では、続きです。

この日は、石巻市の山の中の追分温泉に宿をとりました。

というのも翌日北上川下流域にあった大川小学校跡地へ行くためです。

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今回は一番安い5700円(消費税入湯税別)で泊めてもらって、この夕食。しっかりと食べて元気で翌日を迎えるために食事は大事です。

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ちょうど海鞘が旬、今までも生は何回か食べているけれども皮つきで出てきたのは初めて。皮を手で剥いて中身を食べました。新鮮だとこんなことができるんだと驚きました。朝は、恒例のサンマの塩焼きが出ました。冷凍なのだと思いますが、関東ではアジの開きというところですが、ここではいつでもサンマ、しかも脂がのった美味しいサンマです。

 

朝の天気予報は曇り。

窓から見上げた空は、やっぱりこの後雲が厚くなるような感じです。

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 この日も昨日お願いしたタクシーに来てもらい北上川の大川小学校まで連れて行ってもらいました。

 2012年にこの宿に泊まった時に聞いたショッキングな出来事がずっと頭に残って自分の目でしっかりと視ておきたいと思った被災遺構が大川小学校なのです。

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ここは釜谷地区と呼ばれていたところで2011年の津波まではたくさんの家がありました。手前の建物がこの大川小学校です。

f:id:yporcini:20190627094953j:plainちょっと離れているところから大川小学校を見たところです。まわりには家は一軒もありません。更地と草地のみです。

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校地に入ると、今でもお参りされる方が絶えないと見えて、花を供え、焼香できるようになっています。私も何年来の願いが叶ってようやくここでお線香をあげお祈りさせてもらいました。108名の子どものうち74名と11名の先生のうち10名がなくなったその事実をしっかりと受け止めて二度とこのような犠牲を出してほしくないと思いました。

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焼香台の裏側に見える建物です。中を見ると左側に舞台があり、大勢が集まって集会を持ったり、学芸会をやったりしていたところだと思われます。

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1階の低学年の教室だったところです。もちろん水に浸かったので、天井はボロボロで柱の鉄筋もはみ出ています。

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高学年の教室があった2階部分もほとんど水に浸かったので、天井にも水の跡が残っています。コンクリの壁が崩れて鉄筋だけが空をさまよっている感じがします。

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2階の教室と右側にある体育館を結ぶ渡り廊下の橋脚が倒れています。過ぎてしまえば津波の力の大きさはこんなものからしか想像することができないのです。でも本当の恐ろしさはそこにいて津波の高さや速さや色や音、あらゆるものを総動員してようやく体感できるものなんだろうなと思うと何とも歯がゆい気がします。

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野外円形劇場のようなものも校庭の一部にあります。この学校の建物はすべて円を基調にしていておしゃれな感じがします。おそらく地域の人びとの思い入れの学校だったに違いありません。

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卒業制作の壁の一部です。雨にも負けず、風にも負けずに頑張っていたのに、津波には負けてしまった壁です。でも、銀河鉄道の列車は、天を自由に走っているはず。なんだかちょっと救われた気がしました。

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これがシイタケ栽培をやっていたという裏山です。校庭のすぐ後ろにあるのです。これを低学年の子どもが登れないから避難をしなかったという話が聞こえてきますが、子どもはちょっと大変だけれども年寄りよりもずっと身が軽いので上ることはできたような気がしますが、どうでしょうか。

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大川小学校と数字というパネルです。

ところどころにこうした写真や説明などが建っていて、見学の参考になります。

地震の揺れから津波到達までの時間が51分。校庭から川の堤防へ向かったのが津波到来の1分前というのが、なんだかとても信じられない気がするのです。

子どもの中には山へ逃げようと先生に訴えた子もいるという話もあります。でも、大人は、前回までの津波では堤防を乗り越えてくるようなものがなかったという前例が支配していて、結局は避難にならない避難しかできなくてこのような大きな犠牲者を出してしまったということなのでしょう。

先生方もこの地域の人じゃなく、しかも昔の津波も知らない若い先生が多かったといいます。どんな先生が赴任しても情報を共有して対処できるようにするには、やはり教育委員会がちゃんとした情報を基に危機管理に関するマニュアルを出しておかないといけないんじゃないかと思いました。

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北上川に架かる大橋から大川小学校を見たところです。

バスの窓から大川小学校と反対側に位置する「北上小学校」が見えました。同じくらいの海抜だと思うのですが、浸水は免れたようでこれも不思議だと思いました。現在山を造成して復興住宅を建設しているところに大きな建物が建設中だったので、バスの運転手さんに聞いたら新しい「北上小学校」だというので、やはり危険だと承知して移転を決めたのだろうと思いました。

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海の方を写した写真です。北上川は、東北の大河と言われるのが納得できます。川幅が広く橋を渡るのにずいぶんかかりました。日本の風景百選にも選ばれている葦の群落が続きます。

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大橋の鉄橋も流されたのです。向こう側は色がうすくこちら側は色が濃いかと思います。色が変わっているあたりが切れてしまったのです。この橋が架かるまでは、ずっと上流にさかのぼらなければ対岸に行けなかったのですから、いろんな情報も流れず長く陸の孤島だったに違いありません。

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この地区には路線バスが通っていないので、タクシーしかないかなと思っていたところ住民バスというのがあることを知りました。そんなことを調べているので、旅行の前は時間がかかるのです。

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大橋を渡り、川岸を歩いて約30分。一番近い住民バスの停留所に着きます。

今回は、住民バスが南三陸との境まで行くというとっておきの情報を手に入れたので③の11:09でここから神割崎入口行きに乗ることにしました。

この敷地には保健医療センターと北上支所(役所)がありました。

(続く)

 

石巻・南三陸・気仙沼の旅 その2

今週も旅に出たため下調べなどで忙しく2回目が遅くなりました。

では、続きです。

この日は、石巻市の山の中の追分温泉に宿をとりました。

というのも翌日北上川下流域にあった大川小学校跡地へ行くためです。

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今回は一番安い5700円(消費税入湯税別)で泊めてもらって、この夕食。しっかりと食べて元気で翌日を迎えるために食事は大事です。

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ちょうど海鞘が旬、今までも生は何回か食べているけれども皮つきで出てきたのは初めて。皮を手で剥いて中身を食べました。新鮮だとこんなことができるんだと驚きました。朝は、恒例のサンマの塩焼きが出ました。冷凍なのだと思いますが、関東ではアジの開きというところですが、ここではいつでもサンマ、しかも脂がのった美味しいサンマです。

 

朝の天気予報は曇り。

窓から見上げた空は、やっぱりこの後雲が厚くなるような感じです。

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 この日も昨日お願いしたタクシーに来てもらい北上川の大川小学校まで連れて行ってもらいました。

 2012年にこの宿に泊まった時に聞いたショッキングな出来事がずっと頭に残って自分の目でしっかりと視ておきたいと思った被災遺構が大川小学校なのです。

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ここは釜谷地区と呼ばれていたところで2011年の津波まではたくさんの家がありました。手前の建物がこの大川小学校です。

f:id:yporcini:20190627094953j:plainちょっと離れているところから大川小学校を見たところです。まわりには家は一軒もありません。更地と草地のみです。

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校地に入ると、今でもお参りされる方が絶えないと見えて、花を供え、焼香できるようになっています。私も何年来の願いが叶ってようやくここでお線香をあげお祈りさせてもらいました。108名の子どものうち74名と11名の先生のうち10名がなくなったその事実をしっかりと受け止めて二度とこのような犠牲を出してほしくないと思いました。

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焼香台の裏側に見える建物です。中を見ると左側に舞台があり、大勢が集まって集会を持ったり、学芸会をやったりしていたところだと思われます。

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1階の低学年の教室だったところです。もちろん水に浸かったので、天井はボロボロで柱の鉄筋もはみ出ています。

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高学年の教室があった2階部分もほとんど水に浸かったので、天井にも水の跡が残っています。コンクリの壁が崩れて鉄筋だけが空をさまよっている感じがします。

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2階の教室と右側にある体育館を結ぶ渡り廊下の橋脚が倒れています。過ぎてしまえば津波の力の大きさはこんなものからしか想像することができないのです。でも本当の恐ろしさはそこにいて津波の高さや速さや色や音、あらゆるものを総動員してようやく体感できるものなんだろうなと思うと何とも歯がゆい気がします。

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野外円形劇場のようなものも校庭の一部にあります。この学校の建物はすべて円を基調にしていておしゃれな感じがします。おそらく地域の人びとの思い入れの学校だったに違いありません。

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卒業制作の壁の一部です。雨にも負けず、風にも負けずに頑張っていたのに、津波には負けてしまった壁です。でも、銀河鉄道の列車は、天を自由に走っているはず。なんだかちょっと救われた気がしました。

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これがシイタケ栽培をやっていたという裏山です。校庭のすぐ後ろにあるのです。これを低学年の子どもが登れないから避難をしなかったという話が聞こえてきますが、子どもはちょっと大変だけれども年寄りよりもずっと身が軽いので上ることはできたような気がしますが、どうでしょうか。

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大川小学校と数字というパネルです。

ところどころにこうした写真や説明などが建っていて、見学の参考になります。

地震の揺れから津波到達までの時間が51分。校庭から川の堤防へ向かったのが津波到来の1分前というのが、なんだかとても信じられない気がするのです。

子どもの中には山へ逃げようと先生に訴えた子もいるという話もあります。でも、大人は、前回までの津波では堤防を乗り越えてくるようなものがなかったという前例が支配していて、結局は避難にならない避難しかできなくてこのような大きな犠牲者を出してしまったということなのでしょう。

先生方もこの地域の人じゃなく、しかも昔の津波も知らない若い先生が多かったといいます。どんな先生が赴任しても情報を共有して対処できるようにするには、やはり教育委員会がちゃんとした情報を基に危機管理に関するマニュアルを出しておかないといけないんじゃないかと思いました。

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北上川に架かる大橋から大川小学校を見たところです。

バスの窓から大川小学校と反対側に位置する「北上小学校」が見えました。同じくらいの海抜だと思うのですが、浸水は免れたようでこれも不思議だと思いました。現在山を造成して復興住宅を建設しているところに大きな建物が建設中だったので、バスの運転手さんに聞いたら新しい「北上小学校」だというので、やはり危険だと承知して移転を決めたのだろうと思いました。

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海の方を写した写真です。北上川は、東北の大河と言われるのが納得できます。川幅が広く橋を渡るのにずいぶんかかりました。日本の風景百選にも選ばれている葦の群落が続きます。

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大橋の鉄橋も流されたのです。向こう側は色がうすくこちら側は色が濃いかと思います。色が変わっているあたりが切れてしまったのです。この橋が架かるまでは、ずっと上流にさかのぼらなければ対岸に行けなかったのですから、いろんな情報も流れず長く陸の孤島だったに違いありません。

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この地区には路線バスが通っていないので、タクシーしかないかなと思っていたところ住民バスというのがあることを知りました。そんなことを調べているので、旅行の前は時間がかかるのです。

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大橋を渡り、川岸を歩いて約30分。一番近い住民バスの停留所に着きます。

今回は、住民バスが南三陸との境まで行くというとっておきの情報を手に入れたので③の11:09でここから神割崎入口行きに乗ることにしました。

この敷地には保健医療センターと北上支所(役所)がありました。

(続く)

 

石巻・南三陸・気仙沼を旅して その1

今日で一年も半分終わり。ずいぶんブログを書くのをさぼっていました。今月は、映画も3本、朗読劇も1本、本も10冊ほど読んだのですが、目が悪くなってパソコンに向かう根気がなくなってしまいました。いよいよ今日がその晦日となりましたので6月の記事を1にすべくブログに一つ上げることにしました。

 

今回も旅の記録です。先週末急に思いついた旅です。今年の1月に南三陸方面に行ってからあっという間に半年が経過しました。あの時石巻の追分温泉から震災で多くの犠牲者を出した旧大川小学校を訪ねようと思っていながら、公共交通機関がなくて交通のアクセスが悪いうえ、大寒の頃で

 「川っぷちは吹き曝しでいられたもんではないからもう少し温かくなってからまた出直していらっしゃい。」

 と温泉旅館のフロントの女性の助言を聞いて行かなかったのです。

 その時からの宿題でいつ行こうかと思っておりましたが、今回JR東日本の大人の休日倶楽部で東北4日間乗り放題15000円という切符があることがわかって、これを使っていくことを思いついたのです。

 

一日目は、新幹線で一関まで行って、そこから大船渡線に乗り気仙沼へ入りました。前回は、仙台から東北線を経由して小牛田➡柳津➡(BRT)南三陸のルートでしたので違うルートでと思った次第です。気仙沼へは、震災後の2012年と2013年に来ていますので、およそ5年ぶりです。

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 新しい駅舎になり、BRTの赤いバスも駅構内から発着します。古町から坂を下りて新町へそして懐かしいフェリー乗り場まで歩きました。フェリー乗り場のまわりは、5年経ってもまだ空き地が目立ちますが、海の目の前にモダンな2階建ての建物が二棟できたのが新しい変化でした。向かって左側にはラジオスタジオ、コミュニティホールが入り、右側にはレストランやカフェなどのお店が入っていました。2012年には、近くのプレハブの商店で買ったふかひれ饅を波止場に座って食べたことが思い出されました。

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 あとこの4月に目の前にある大島へ「つるかめ大橋」がかかって、フェリーは廃止され、今は土日だけ運行する遊覧船が停泊していました。

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 お昼は、「アンカーコーヒー」というカフェで金メカカレーを食べました。金のつぶという玄米にメカジキととろっとした玉ねぎが入ってスパイシーなカレーです。今夜のお宿の食事も魚尽くしだろうと思うとちょっと洋風なものを食べたかったのです。

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 アンカーコーヒーは、気仙沼発祥です。気仙沼にマザーポートという焙煎をしている基幹店があります。いい豆をブレンドして100gずつパックして売っています。この日のブレンドは、「リアス」という名のブレンドでブラジル、タンザニアウガンダの豆のブレンド。苦味があってすっきりとしたお味が気に入って帰りに買って帰りました。ドーナツも自家製で焼きドーナツです。これは、ちょっと甘すぎるかもしれません。

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ここから魚市場の方へ向かったら、ようやくお目当ての「つるかめ橋」が見えました。湾を挟んで街の中心からはかなり離れているのでバスを使うか、車でないといけない距離です。すぐそこに見えるのに近くて遠い大島です。大島で一番高い山は「亀山」というので、そのカメとおめでたいツルをかけて名前を付けたのではないかと思いますが、だれかに聞いたわけではないので確かなことはわかりません。

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気仙沼湾内です。震災時には、この湾にあった石油のタンクが津波で横倒しになり炎をあげてこの湾の中を転がった映像を思い浮かべられるかたもいらっしゃるのではないでしょうか。鎮火させるまで何日もかかったそうです。2013年に来た時に見た大船渡線気仙沼の次の「鹿折唐桑」駅の近くに大きな船が横たわっていたのも思い出されます。湾の一番奥から何キロも流され、引き波で戻された船でした。

 今は、基幹産業である水産業は元に戻りつつあるのでしょうが、街全体の復興はまだ数年はかかるような気がしました。

今日の気仙沼は、青い空が広がり穏やかでとても震災があったなどとは想像できないいい日和でした。

http://yporcini.hateblo.jp/entry/2012/06/30/001140

http://yporcini.hateblo.jp/entry/2013/09/22/084342

参考までに気仙沼の記事をです。

 続く

5月24日の違憲訴訟の会

 5月に入ってしばらく間があいた「TPP新聞」が手元に届きました。

 私は、食のこだわりからTPPの農業分野や水道のことには疑問がありました。自分が良ければ、今だけ良ければなら、安全安心なものを取り寄せればいいのでしょうが、社会全体、そして次の世代にも安全で安心なものをと考えると政治から目を背けることができませんでした。そのために「TPP交渉差し止め・違憲訴訟の会」の原告の一人になりました。

 特に地裁の公判がある時には、何回も傍聴に足を運びましたが、国からの具体性のある説明は聞くことがありませんでした。

 2015年5月から2018年10月までの3年半、TPPそのものと交渉プロセスの違憲性を問うてきましたが、最高裁判決で棄却となり終結されました。しかしながら控訴審判決で「種子法廃止」は、TPPを背景にしたものだという判示があったそうです。

 日本の主要な農作物の米、麦、大豆は、これまで「種子法」によって安定供給が担保され、維持されてきたのです。以前触れたことがありますが、その種子法を廃止することで、何を政府はしようとしているかと言えば、外資企業の参入、品種の減少、供給不安、さらには遺伝子組み換え作物の生産拡大です。

 

 マスコミは、このことがとても重大であるという信号を社会に送り続けることはなく、2017年通常国会でこの法案を通してしまいました。日本の食料の根幹にかかわることをかくも簡単に決めてしまう日本の国の危うさがどこまで行くのだろうかと不安になるばかりです。

 

 5月24日に「TPP交渉差し止め・違憲訴訟の会」の総会があるというので参加しました。そしてこの日は、TPP訴訟ではないけれども、新たにそれに続く「種子法廃止等に関する違憲確認訴訟」を東京地裁に提訴した日でもあります。

 

 提訴の中身は、80ページに及ぶもので、弁護団が前日深夜までかかって仕上げたということで、大変ご苦労されたことがうかがえました。

 今回の提訴の具体的な文面は「TPP新聞」に要約したものがのっていますが、詳細はインターネットのホームページを通じてアップされることになっております。その中のごく一部ですが、弁護団の方から解説されたものがあったので、下記に引用させてもらいました。今度の訴訟の組み立てがおよそわかっていただけるのではないでしょうか。

  弁護団 浅野正富氏からの解説2より引用

 1948年国連で採択された「世界人権宣言」の25条1項は、「すべての人は、衣食住・・・により自己及び家族の健康及び福祉に十分な生活水準を保持する権利・・・を有すると規定しており、この食に関する部分は「食料への権利」を定めたものと理解されています。

 

 さらに1966年の国連総会において国際人権のうち「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約」第11条では、「食料への権利」がより具体的に規定されました。

 

 食料への権利は、だれでもいつでもどこに住んでいても、人が生まれながらに持っている最も基本的な権利の一つで、人が心も体も健康で生きていくために必要な食料を自らの手で得られる権利です。

 

 農民が自由に種子を入手して農産物を栽培し、それを消費者が購入することを政府が制限したら、それは農民や消費者の食料への権利の侵害となります。

 

 日本国憲法第25条は、「健康で文化的な最低限度の生活」を保障していますが食に関する十分な生活水準が保持されなければ「健康で文化的な最低限度の生活」とは言えませんから、食料への権利は憲法25条によって保障されていると解釈することができます。

 

 したがって、種子法によって農民が廉価で優良な品種の種子を入手して農産物を栽培し、それを消費者が購入できた状態を、種子法の廃止によってできなくすれば、それは明らかな憲法違反です。

 

   

 総会には、あれっどこかで見た方が・・・と思ったら、川田龍平氏が参加されていました。

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 非加熱製剤でHIVを発症し、薬害エイズ訴訟を闘った方です。あの時代エイズを発症したと名前も顔も公表した人はいなかったので、マスコミでもずいぶん取り上げられました。現在は、立憲民主党参議院議員

 今回から連れ合いの「堤未果」さんとともにこの訴訟の原告になられたということで挨拶されました。

 

 怖~いこぼれ話

 

 最後に元農林大臣の山田氏からの挨拶の中で、国会議員ら28名が髪の毛を使って農薬の残留を調べたということを聞きました。

 

 遺伝子組み換え種子とセットで売っている除草剤グリホサート(商品名ラウンドアップ)をはじめ危険な農薬ネオコチノイドなどが残留していないかを調べる検査です。

 

 まだこの農薬がどのくらい摂取されると体に残留するのか、どこに一番顕著に出てくるのかということはわかりませんが、このうち23人に何らかの農薬が検出されたそうです。議員さんたちなので、そんなにひどい食べ物を食べているとも思えませんが、忙しい方たちなので外食は多いのではないかと思います。

 

 議員さんがこの検査をやったということはこの結果を踏まえ、これから国会の中でも取り上げられ、政治問題化されていくのではないかと期待されます。

 

 今や、100円ショップでも手軽に買える除草剤としてグリホサートの入った商品、その危険性を知らせないで日々売られ使用されているのが日本の現状です。

 アメリカでは、長年ランドアップを使用し続けガンを発症した農民がモンサントに対して裁判を起こし、勝訴したと伝えられています。モンサントの内部文書で、ランドアップがガンを誘発することがわかっていたことが表に出てきたらしいです。こういう訴訟が何件も出てきていることも知る必要があると思います。

 

 遺伝子組み換えの種子の危険性と農薬の危険性、その2つが複合されるといったいどんなことが出てくるのか、すべて今私たちが実験台です。

 

 あと怖いと思ったのが、早く小麦を枯らせて収穫したいという効率を求め、収穫期にランドアップのような薬を撒いているということです。収穫期に使われるこの農薬は特に危険だと思いませんか。

 

浦賀散策

 4月に2度下見をして計画を練った浦賀散策の本番が昨日でした。学生時代の女子?7人が担当を交代しながら半年に一度散策プラス食事会を開くようになってもう7年くらい経つでしょうか。

 今回は、私が当番でしたので「浦賀」を選びました。去年一人で浦賀へやってきた時に歴史に名を刻むわりに人があまり来ないところなので、歴史好きの友人たちには喜んでもらえるような気がしたのです。

 都内のあちこちから2時間くらいかけてくるので、あまり早くてもたいへんかなと思って10時半浦賀駅の改札口に集まることにしましたが、全員定刻前に到着です。

  コース

 浦賀駅➡造船所跡➡浦賀文化センター分館➡西叶神社➡常福寺➡干鰯問屋だった町家

 ➡渡し船➡東叶神社➡浦賀城跡➡バスで観音崎を経由して伊勢町➡「カネヨ食

 堂」➡馬堀海岸駅

 

 先週から天気予報は曇り、雨が降らないだけいいかと思っていたのですが、絶好の散歩日和。山の緑は鮮やか、海の色は青く輝いていました。

 浦賀造船所跡

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 造船所跡地にはイベントがある時だけしか中へ入ることはできないそうです。

 

 駅から浦賀の湾の右側を10分ほど歩くと浦賀コミュニティセンター分館(郷土資料館)」へ到着します。1階の事務所に声をかけ「歴史のまち・浦賀」などのコピー資料をもらいました。

 2階には奉行所など今はもう姿を見ることができない建物の模型などが展示されていて浦賀を歩く前にアウトラインを知るのに便利なところです。

西叶神社

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 文覚上人が源氏の再興を祈願してその願いが叶えられたことに起源をもつ神社です。

 見事な彫刻があらゆるところに施されています。

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 この力士像は、浦賀文化財として有名なものだそうです。これまで自分では見つけられなかったのですが、昨日は友人が見つけてくれました。このようなところに使われている力士像を見たのは初めてです。小さな作品ですが、あたかも彼が屋根を持ち上げているようでこの力士像が一番気に入りました。

 先週の初めにNHKのテレビ番組「鶴瓶の家族に乾杯」でゲストの松坂桃李さんが浦賀を歩いたのだそうです。前もってシュミレーションができていたという友人がいて、ここでお守りの勾玉の石を買い、東叶神社で勾玉を入れる袋を買うのだと張り切っていました。若い人は、恋の成就を祈るそうですが、彼女は、ぽっくり死ねますようにと祈願したと後から聞きました。そんなことを願うような年になったのだなあ・・としみじみしてしまいました。

 常福寺

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 この常福寺は、浦賀に着任した奉行も離任していく奉行も公式行事を行う奉行所御用寺だったそうです。この浦賀では格式のある寺だったということなのでしょう。庫裏の中に「築山泉水庭」があるというので、庭を見せてもらえるよう電話でお願いしておきました。

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 すぐ南側に借景とする愛宕山が迫っているせいか奥行きがない分縦を意識した木々の配置が見事だなと思いました。「サツキがまだ咲いていないので今の庭は華やかさがない。」と住職が言っておられましたが、左側の流れに紫と白のアヤメが咲いていましたし、これから初夏に向かって蓮やギボウシも花開くと彩りのあるお庭になるだろうと想像できました。突然行っても見せてくれないという特別感もあって友人たちも喜んでくれました。

 干鰯問屋だった建物

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 関西で綿花を栽培するようになり、肥料として干鰯を大量に扱う浦賀が栄えたといわれています。浦賀には最盛期には30軒くらいの干鰯問屋があり、全国の干鰯を独占するくらいの勢いだったといいます。

 

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 今は、まったくそんな商いをしているうちはありませんが、面影を残す家や蔵を見つけることができます。

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 対岸へ行くためには、歩くと30分弱かかるのではないかと思うのでこの渡し船を利用します。渡し船に乗りたいときは、押しボタンを押すと対岸にいても、たとえ一人でも船は迎えに来てくれます。ただし12時から13時の間は昼休みのため乗ることはできません。料金は以前は150円だったのですが、今年は200円になっていました。御座舟と言われるスタイルの船だそうです。

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 昔は、この地域の人の生活に欠くことがことができない船で船二艘に船頭さんも二人だったようですが、今は一人です。だんだん乗る人が少なくなり、昼間に乗るのはたいてい観光客という様子が見てとれます。

 この船は「浦賀海道」と名付けられ、横須賀市道2073号となっているそうです。海の中の道なんですね。

 私たちも渡し船に乗り、西浦賀から東浦賀へやってきました。

 東叶神社

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 船着場から南へ5分くらい歩くと東叶神社へ着きます。この写真は、4月に撮ったものです。こちらも西叶神社と同じような言い伝えがあるそうです。

 向かって左側に山へ登って行く階段があります。神社の裏山は、かつては房総半島の里見氏と対峙していた時の北条氏が築城した浦賀城の跡地です。200段を越える階段なので5人だけは頑張って上りましが、2人には途中で待っていてもらいました。私もここは初めてです。うっそうとした自然林に囲まれた頂上は、一人ではちょっと怖い感じがします。f:id:yporcini:20190517121057j:plain

 城跡には、かつては奥宮があったそうですが、火事で焼失。小さな祠だけがありました。

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 ここで、咸臨丸に乗って出港する前の勝海舟が下の井戸水で水垢離をして、この山の頂上で断食をしたといわれています。その碑が建っていました。

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 南側にベンチがあり海をながめられるようになったところがありました。木を払って展望台にしたのでしょう。右側の岩場の手間の緑に囲まれたところに小さな家のようなものが見えますが、燈明堂だと思われます。燈明堂は幕府の命令で作られ、その灯りは房総半島まで届いたといいます。今見えるものは、1988年に復元したものだそうです。

 お守り袋も無事手に入れ、予定より20分ほど早いバスに乗車して、観音崎へ向かいました。

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 観音崎は、ちょうどハマダイコンが花盛り、ツバメがすごいスピードで目の前を飛び交っていました。(4月の写真です)

 ここからさらに横須賀行きのバスに乗り、途中の伊勢町というバス停で下りました。

 「かねよ食堂」

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 バス道路から海の方へ下りていくと昆布やワカメなどを加工して売っているお店が並んでいます。その一番奥にこの「かねよ食堂」があります。

 予約ができないので、空いているといいなと思っていたのですが、大丈夫でした。天気が良く中より外の方が風があって涼しそうでしたので、砂浜にパラソルを立てた野外で食べました。

 目の前は海です。浦賀水道ですから、次から次へと船が行き交います。ちょうど自衛隊の艦船だと思われる船が航行中。久里浜と金谷を結ぶフェリーも通ります。

 海の中には、アマモがびっしり生えているのも見ましたし、波打ち際では潮干狩りもできるようで、このあたりはとっても豊かな海だと思いました。

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 ランチは、4種類あって私はタイカレー、他の6人はマグロと野菜のラタトゥイユ風のもの、それにお薦めのカルパッチョを二皿取って、みんなでシェアしました。ランチメニューには、カボチャのポタージュ、それにデザートのほうじ茶プリンが付きました。

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 この食堂のオーナーは、漁師さんなので、魚や海藻はほとんどは自前というもの。新鮮でおいしいです。

 下のカルパッチョは、4月に下見で来た時の物。ナマコの酢の物、タコとワカメ クロダイ、海草のアカモク、ソゲ(1㎏以下のヒラメのこと)、三崎のマグロ二種、真ん中がヒラメの白子、ふだんなかなか出会えないものもでてきました。

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 砂浜での食事は気持ちが解放されるのか、一滴も飲みはしないのに口も軽く、結構大きな声でおしゃべりもできて良かったなと思いました。

 自分自身体のあちこちに不調が出てきているので、あと何回こんなことができるかなあと思いながらの計画でしたが、とりあえず今回もみな無事で集まれたことに感謝したいと思いました。

 帰りは、浦賀に戻るのではなく馬堀海岸駅から電車に乗りました。