ふるあめりかに袖はぬらさじ

岩亀楼の石灯篭

 

f:id:yporcini:20120826163918j:plainf:id:yporcini:20120823151345j:plain

  幕末の開国に伴い、外国の反対を押し切って、横浜村を開国の場所としたかった幕府は、オランダから遊女町の開設を要請されていたので、あわてて沼地だった土地を埋め立てて、その開設を急いだそうです。また、長崎の平戸と同じように行動範囲を制限したかった幕府は、堀切川に橋が架かっていたので(今の関内駅辺り)、そこに出入りをチェックする関所のようなものを作り、そこから海の方を関内と称して、外国人が関内から外へ出ることを規制しました。

 現在横浜スタジアムのある横浜公園辺りに、たくさんの遊郭を建てさせたそうです。最盛期には、15軒の遊郭が建ち、300人の遊女が働いていたそうです。

 岩亀楼(がんきろう)は、その中でもひときわ豪華で、昼間は、見物料を取って庶民に見せていたほどだそうです。1859年から7年後に火事があっのて、移転をしたそうですが、横浜公園の日本庭園の一角に、その岩亀楼の庭園にあった石灯籠が残っています。

 岩亀楼には、日本人対象の遊女と、外人対象の遊女がいて、外人相手の遊女は、羅紗緬と呼ばれていました。日本人相手の遊女に「亀遊」(きゆう)という美しい遊女がいたそうですが、岩亀楼に来ていた外人が、羅紗緬でない「亀遊」を見初めて、幕府の役人に手を回し、岩亀楼の主人に頼み込んで「亀遊」に相手をさせることを承諾させます。「亀遊」は、外国人の相手はしないと拒み、自害をしてしまったという話が、

 「露をだに厭う大和の女郎花、ふるあめりかに袖はぬらさじ」

と、いう歌とともに、伝えられています。この歌を誰が作ったのか、真偽はわかりませんが、女郎なのにりっぱな心意気だと、「亀遊」さんは、攘夷女郎と呼ばれ、攘夷派の宣伝に使われていたようです。

 作家の有吉佐和子が、この話を素に「ふるあめりかに袖はぬらさじ」という脚本を書いているので、芝居で有名になりました。

 岩亀楼の石灯篭が、開国にまつわる歴史の一端を残してくれています。