ガールズビーアンビシャス!

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先日、横浜開港資料館へ行ってきました。

 現在、どこかで聞いたことがあるような

タイトルの展示が行われています。

 そう、札幌の農学校で教えていたというクラーク博士が

語ったといわれる ”ボーイズビーアンビシャス”

をもじってつけられたタイトルです。

ガールズ ビー アンビシャス!~横浜山手のミッション・スクール~

 アメリカでは、19世紀に入り海外伝道が活発に

行われるようになってきました。

 1859年横浜が開港したことを機に、

日本に対しても布教活動が始まりました。

 ヘボン宣教医(ヘボン式ローマ字の発案)をはじめ、

男性宣教師が次々来日してきました。

 少し時代が進むと、宣教への熱意はアメリカの女性をも動かし、

日本の近代化には女性の教育が必要だという考えに基づき、

女性による女性のための伝道が始まったそうです。

 横浜は、ミッションスクールの始まりの地だったのです。

 *フェリス女学院(旧フェリスセミナリー)

 *横浜共立学園(旧亜米利加婦人教授所)

 *横浜英和学院(旧ブリテン学校)

 *捜真学院(旧英和女学校)

 *横濱雙葉学園(旧横浜紅蘭女学校)

 今回は、この5つの学校を取り上げ、

貴重な資料が展示されています。

 このころは、日本の女子は小学校までしかいけなくて

その上の勉強をすることはできませんでしたので、

学びたい意思を持つ学生は、ずいぶん遠くから来て、

寄宿しながら学んでいたということです。

 といっても、今のような大人数の学校ではなく、

はじめは、せいぜい5人~10人程度の学生だったのが

その頃の写真を通してわかります。

 内容は、読み書きそろばんにとどまらず

体育や美術や音楽、もちろん英語やキリスト教、そのほかにも

よき家庭人を育てるための裁縫や家事の実習なども

行われていたようです。

 週50時間と毎日かなりの授業時数だったようですが、

写真の女学生の顔は真剣そのもの、

タイトルのように大きな希望、大志を持っていたことが

感じられます。

 その頃の外国人の居留地は、山手の丘の上が多かったので、

関東大震災第二次世界大戦

2度の困難に遭遇してしまいました。

 今も山手に残っているのは、3つ、

後の2つは市内のほかの場所に移転しています。

 横浜では、これらの学校は、子女の教育を考える親の間では

現在も依然として人気の高い学校です。

 今まで何となくキリスト教系の学校のことを

ミッションスクールと呼んでいましたが、

 この時代の歴史からきていることを初めて知りました。

 これって私だけなのでしょうか。

 学校を作り、女子を教育しキリスト教を布教することは、

大事なミッションだったのです。