さくらもまだなのに‥‥‥
1人熊野古道へ出かけてきました。
年を重ね、だんだん脚の方が弱ってきました。
今のうちに行かないと行けなくなるという
強迫感に押されての旅です。
新幹線に乗り、この日は三島あたりから富士山も見え、
まずまずの天気です。
車窓から見慣れた富士山なのにやっぱり見えると
つい写真を撮りたくなるのはなぜなんでしょうか。
車窓からミカンの木が見えてくると間もなく
田辺です。
以前、出張で和歌山へ来た時に、手前の南部まで来て、
梅林を散策したことがありますが、それより南へ来るのは初めてです。
新横浜から乗り換え時間も含め、約7時間かかりました。
この日は、田辺泊まりです。
田辺は、熊野本宮大社を目指して歩く
熊野古道の基点になるところで、口熊野と呼ばれています。
ホテルにチェックインし、向かったのは「南方熊楠顕彰館」。
私が南方熊楠のことを知ったのは、
だいぶ前に友だちの誘いで出かけた民芸の芝居で
熊楠は、江戸末期に生まれ、
明治期に東大予備門からミシガン州立の農科大学で学び、
更にイギリスへ渡り、ネイチャーに論文を寄稿、
主に、粘菌について研究をした科学者です。
イギリスから帰国した熊楠は、この田辺に住居を構えました。
この辺りの通りは、昔を彷彿させる屋並みになっています。
瓦をはめ込んだ塀があったり、蔵が建っていたり‥‥‥
南方熊楠邸の玄関です。
イギリスから帰った熊楠は、知人の勧めで神社の宮司の娘と結婚をして
この家で生涯過ごしたそうです。
敷地は、400坪だそうで広い庭があります。
このクスノキは、熊楠がこの家を買った時には、
もううっそうとした大きな木だったそうで、
熊楠は、自分の名前にある楠の木をことのほか好んだとか。
そういえば、紀伊半島は温暖な気候のせいもあり、
大きなクスノキをたくさん見かけました。
まだだと思っていた桜がこの庭に咲いていました。
さすがにソメイヨシノはまだのようですが、彼岸桜でしょうか。
もうだいぶ散っていました。
ほかにも、和歌山らしくオレンジ色の実をつけたミカンの木や、
黄色の大きな実がついたレモンの木が植えてありました。
熊楠のうちの庭になっているレモンには、
檸檬という漢字を充てたくなります。
書斎です。
特に目を引くのは、机です。
机の前脚と後ろ脚の長さが違っていることがわかるでしょうか。
天板が斜めに傾いています。
私も、パソコンに向かうことや書き物をすることが多いため、
どうしても体が前のめりになり、肩がすごく凝るので、
こういう机がいいなあと思っていた矢先なので、
特に気になりました。
熊楠は、常識にとらわれず、合理的な考え方をする人で、
迷わず大工さんに頼んで作ってもらったようです。
これは、竹のドーランと絵具の道具です。
熊楠は、那智山を中心に山の中を分け入り、
菌類の採集をしました。
時には、遭難しそうになることもあるくらい山奥深く分け入り、
那智山付近の山で彼の歩いていないところはないと
いわれるくらいです。
地図を書き記したり、
採集した菌を丁寧に手書きで描いたりするために
採集物を入れるドーランと絵の具は
必須アイテムだったに違いありません。
ドーランという言葉を久しぶりに耳にし、
私が、小学生の頃、植物採集をした時に使った記憶が
呼び戻されました。
南方邸の横に記念館ができていて、
関連の膨大な数の図書が展示され、
粘菌をシートにしたものを顕微鏡で見られます。
また、熊楠の紹介や粘菌をビデオにまとめたものが
流されています。
私が熊楠のことをすごい人だと思うのは、
宗教学や民俗学にも通じ、その足跡を残していることです。
特に、自然保護の観点から、神社の合祀の政策に異を唱え、
机上を離れ反対運動をしたことには、強く惹かれます。
熊野の山の中には、熊楠のお蔭で合祀を免れ、切られずに残った大木や
森があると言われています。
夜は、ホテルのお兄さんご推薦の居酒屋で刺身盛り合わせを食べました。
田辺の駅から2分くらいのところに味光路という
居酒屋が集まった路地があるのです。
私が食べたのは、「とっくり」という居酒屋さんで、
6時には、お店は地元の人でいっぱい。
私は、飲めないのでご飯だけでしたが、
うわさ通り美味しいお刺身を食べさせてくれました。
サバ、イサキ、ブリ、タイ、カツオが出ましたが、
この日のカツオは、特に美味しかったです。
カウンターのお隣に座っていたご夫婦がいろいろ話しかけてくれて
しばし、楽しいときを過ごすことができました。
(続きます。)