7日に、かつての同僚6人で町田市にある旧白洲邸へ行ってきました。
ほとんどの人がわりと近くにいながら、一度も行ったことがなかったのです。
小田急線の鶴川駅から歩いて15分くらいのところですが、
健脚者ばかりではないので、駅からバスに乗って最寄りの停留所まで行き、
そこからは、2分くらい歩きます。
ここは、昭和18年、白洲次郎と正子が引っ越してきて
終の住みかとなったところです。
ここを「武相荘」と名づけたのは、
この辺りは、武蔵の国と相模の国の境だったからだそうですが、
次郎が一ひねりして、
「武相荘」と「不愛想」をかけたのだろうと言われています。
彼らがここへ来た当時は、鶴川は東京といっても、
山があり、小川が流れ、茅葺の家が続く田舎だったそうです。
この日も、天気に恵まれ、
鮮やかな新緑が目に沁みました。
長屋門をくぐると、右手に Bar and 第2ギャラリーという札が立ち、
初夏を感じさせるバイカウツギが活けてありました。
第2ギャラリーには、一体何があるのかと思いながら、
階段を上り、扉を開けると
そこは、バースタンドがある部屋でした。
照明を落とした薄暗い部屋は、調度品が濃い茶色に統一され
まるでロンドンの立ち飲みのパブのようです。
次郎は、イギリスに留学していたので、
こういうイギリスのにおいを感じられるものが好きだったのでしょう。
右の壁に二人の若かりし頃の大きな写真がかかっています。
二人のなれそめの頃でしょうか。
美男美女の二人は、輝いて見えます。
人には必ず若かった時があるんだなあと
ちょっとほろ苦い気持ちでその写真を眺めました。
ビールを飲む代わりに、古き良き時代の空気をいっぱい吸い込んで
部屋を出ました。
母屋の展示物は、撮影禁止でしたので、つい外観も取り損ないました。
一つ目の部屋で一番印象的だったのは、次郎の遺言。
「戒名不用、葬式不用」
と、正子と3人の子どもに宛てて
薄墨の筆でさらさらと書いてありました。
お墓は、どうしたんだろう? いうのが
私たちの抱いた疑問でした。
部屋のまわりには本がいっぱいの正子の書斎も気になりました。
あまりに多い本の重みで部屋のまわりが沈んでいます。
机の上には、今 そこに正子が原稿を書いているような
しつらいになっていました。
囲炉裏が切ってある居間には、陶磁器、漆器が並べられ、
隣の部屋には、正子が着ていた着物などが飾ってありました。
庭には、散策路があり、一廻りできます。
目の前の竹藪の石塔には、次郎の遺髪が納めてあるそうです。
母屋の隣に併設のレストランがあります。
お昼はそこでいただきました。
私が食べたのは、白洲家に伝わるレシピで作ったエビカレーです。
カレーは、エビか、チキンか選べます。
冷たいコーンスープ、ご飯、サラダ、4つの薬味、それに食後のコーヒーがついて2300円+消費税です。
姫檜扇
自分でもおかしいと思うのですが、武相荘まで来て、
私の一番印象に残ったのは、実物の檜扇(ひおうぎ)が見られたことなんです。
前日、三渓園でお茶会があった部屋の障壁画が檜扇(ひおうぎ)だったのです。
ぜひ、それを見に行きたいと念じていたところだったからです。
これは、万葉植物園へ行かないとなかなか見られないと聞いていたので、
翌日すぐに見られたのは、偶然にしてもでき過ぎだと思いました。
この写真は、正確にいうと 姫檜扇(ひめひおうぎ)。
花の色、葉の形もちょっと檜扇(ひおうぎ)とは違います。
普通の檜扇の葉は、もっと太く長く、
しっかりと檜扇の形になっているのですが、
これは、葉が小さくしっかりと檜扇の形になっていません。
花も違います。
ヒオウギの方は、花弁が6弁に分かれているのは同じでも
朱色の花全体に紅い斑点が付いています。
そう、ホトトギスの花に似ています。
葉の形が檜扇の名前の由来ですが、花があまりにも艶やかなので、
万葉のころから咲いていたということがうそのように感じました。
補足
白洲次郎は、イギリスに留学していたので、英語はペラペラ、学識もあり
戦後、吉田 茂に懇願され、GHQとの折衝の任務に就き、
GHQに「唯一従順ならざる日本人」と言われた。
正子は、伯爵家の出身で、幼いころから能を習い、
女性で初めて能の舞台に立ったという経歴の持ち主。
陶磁器、染め織りなど日本文化についてたくさんの著作がある。
二人は、お互い一目ぼれで恋に落ちたのだそうです。