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「その音、奇妙なり」(横浜開港資料館企画展示)

 午後遅くなって、関内方面に出ました。

 バスを降りると本町通りのイチョウは、まだ黄色い葉をたくさん残していました。

 雨が降り始め、持っていた折り畳み傘を広げて歩きはじめましたが、

この時期の雨は、なぜかとてもわびしい気がします。

 まず、開港資料館へ行きます。

 午後3時半を過ぎていたので、足早に目的地に進みました。

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 二階の企画展示の入口のところに写真撮影用の大きな展示ポスターがありました。

 これ以外は、撮影不可でした。

 

 ここは、毎回 開港と横浜の変貌を

いろんな角度から切り込んで見せてくれています。

 

 今回は、横浜と西洋音楽との出会いをテーマにしています。

 大まかに紹介します。

 

 まず、目に飛び込んできたのは、浮世絵です。

幕末の外国人居留地を描いた浮世絵には、

街を演奏しながら行進する音楽隊や踊りを踊る人たちが描かれています。

 見たことも聞いたこともない楽器が奏でる音とリズムに

当時の人々は、さぞびっくりしたことだろうことが想像できます。

 他方、三味線やお琴が奏でる音や歌を聞いた外国人は、

日本人は、西洋音楽の和声を理解できないのじゃないかと思ったようです。

 

 幕末から明治にかけて、日本は西洋式の軍制を導入したので、

西洋音楽は、まず軍楽隊の創設から始まりました。

 

 キリスト教の布教のために入ってきた宣教師たちにより

讃美歌という形の音楽も続きました。

 

 その次は、教育です。

 明治5年に「学制」の発布の中で「唱歌」の科目が設けられたそうですが、

実際に授業として出てくるのは、明治十年代後半だそうです。

 小学校でオルガン開きを明治22年にやったという記録があるので

唱歌を教える先生は、さぞ苦労したのではないかと察せられます。

 因みに、オルガンやヴァイオリンを制作した工場も横浜にありました。

 

 その後、街の中心地にある町会所で夜会や演奏会が開かれて一般の人たちが

西洋音楽に触れる機会になったそうです。

 

 開港50年を記念して明治42年に作られた横浜市歌は、日本の市歌の先駆けで、

いまだに歌われ続けられているというのが横浜の自慢でもあるのです。

 

 唱歌の中には、「養蚕唱歌」「鼠疫予防衛生教育ねずみ唱歌」「日露軍歌」

「征露軍歌」など興味深いものがありました。

 

 実際に残っている音が聞けたようですが、昨日はその時間がありませんでした。

 西洋音楽も入ってきた経緯を見ても、

その当時の社会状況と密接に関係していることがよくわかりました。

 

 (この展示は、来年1月24日までです。)

(明日に 続きます。)