福島の旅 その3

 続きです。

 昼食後、バスで飯館村へ移動しました。

 土湯から下って福島市を横断し、東方向へ登って行きます。飯舘村は、標高500m阿武隈高地に位置しています。東京でいうと、高尾山よりも100mばかり低い高いところに位置していますが、山の中というより平坦で開けている高原のような感じの場所です。かつては小高い丘のような山に囲まれ放牧している牛がのんびりと草を食み、川に沿った地域では稲作が行われ、花卉栽培も盛んで本当にのどかな村だっただろうと想像できます。

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 一見、稲を刈り取った後の田んぼのような気がしますが、田んぼを除染するために草を刈り表土をはぎ取った後のようすだと聞きました。

 除染は、田んぼや畑のみで、周りの畔は対象になっていないし、まわりの山はもちろん対象外ですから、農作業をする方々が安心して作業できる満足な状態ではなさそうです。 

 飯舘村は、福島原発のある所から40㎞離れており、当初避難区域から避難してくる人たちの避難場所だったとも聞いています。爆発の数日後に降った雪で空気中の放射性物質が降り積もり、高濃度の汚染に至ったようです。

 ほかの町や村よりもずっと後の4月11日になってようやく全村避難命令が下されたといいますから早めに避難できなかった子どもたちにとっては深刻です。

 昨年の4月に一部地区を除き、居住制限区域に格上げ?され帰還が可能になりました。

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 村に入って初めて目にした立派な建物は、この道の駅「までい館」です。”までい”というのは、丁寧に 手をかけて ・・・・というような方言で、この村では収穫した農産物を使って味噌や漬物など手作りで何でも作ったといいます。

 コンビニが1つしかなかった村に帰ってくる人の呼び水になるようにとの願いで作られた鳴り物入りの道の駅だったのでしょうが、約6000人住んでいた村民のうち戻って居住しているのは約600人、それもほとんどは、お年寄りだということです。

 ここで、この村に「飯舘電力」を立ち上げられた役員の方と合流して案内していただきました。この方は、前回紹介した「元気アップつちゆ」の立ち上げにもかかわられた方でした。

 2014年に再生可能エネルギーとしてソーラーシェアリングという手法を活用した「飯舘電力」を立ち上げたそうです。4年目にしてやっと利益が出たので、今年初めて土地を提供してくれた地権者や出資してくれた方々にようやく地代や配当を出すことができたことが明るい話だとおっしゃっていました。

 この「飯舘電力」設立にも地域の方々の出資を受け、太陽光発電のパネルの設置工事、草刈りなど必要な仕事は地域の業者さんからという方針で雇用にも繋げているとお話されていました。

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 フレコンバッグが積まれている畑です。たてに4段積まれているうち一番下と一番上は、他から持ってきた土のフレコンバッグで、除染したものは挟まれた中の2段、また一番外側になる部分も除染した土ではないもの、それをまた緑色の厚いシートで覆っているようすです。

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 緑のシートの上ににょきにょきと出ている黒い煙突は、フレコンバッグから出てきたメタンガスを放出しているものだそうです。野積みしてからずいぶん時間が経っているようです。そのうち中のフレコンバッグやシートが破れてくるのではないかと心配になります。仮置き場から撤去されるのはいつのことになるのか、これも大きな課題です。

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 白くなったところは、以前は後ろに見えるような山でした。除染のフレコンバッグを囲むために山を崩して土を掘りだした跡だと聞きました。工事現場か何かのようでほとんど山らしい形跡はありません。

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 フレコンバッグ本体です。たぶん、これは山の土を崩して作ったフレコンバッグだと思いました。 

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 ここで一度バスを降りました。

 この建物は、老人ホームだそうです。震災で全村避難地域に指定されても、ここにいたいという方がたくさんいらして、その方々が住んでいらっしゃるとのことでした。介護職員は、福島や近隣のところへ避難しているので、そこから通って介護をしていると聞きました。介護職員も大変だったでしょうが、避難して病気を患い辛い思いをしているお年寄りがたくさんいると聞きますから、私でもずっといる方を選ぶかもしれません。ちょうどドウダンツツジが真っ赤に色づいていました。

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 その老人ホームの土手になるところに太陽光パネルが設置されていました。このように高さが低いパネルは、「野立て」というのだそうです。パネルの下の部分は何かに利用できるものではないタイプです。

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 バスの車窓から、農家の庭先や畑にこういったタイプの太陽光パネルがあちこちで見られます。農地と発電をシェアするので、「ソーラーシェアリング」というそうです。

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 ここは、この会社の社長さんの家の庭というか畑です。ソーラーシェアリングになっています。冬に雪が降らないようなところでは、このパネルの角度はもっと開いていて太陽光を効率的に受けられるようにするのだそうですが、ここは冬は寒く雪も降る地域なのでそれを計算した角度になっているそうです。

 大手の会社がやはりこの村に広大な土地を使った太陽光パネルを設置しているそうですが、雪を計算していないので、開いているパネルになっているので、「雪が降ったらどうするのでしょうね。」と言っておられました。「飯舘電力」は、パネルの下の草刈りもメンテナンスも地元企業にやってもらうそうですが、大手さんは、経済のことだけで地元の雇用を創出させることなどに関心がないようです。

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 現在は生み出された電気は、このパネルのそばにある電柱のところから、東北電力へ流れて行くのだそうですが、今よりも容量の大きな電気を蓄電するバッテリーが安く手に入るようになったら、コンセントのところからバッテリーに充電させて、自前で電気を販売できると夢を語っておられました。

 自動車も自前で蓄電池を備えることができれば電気自動車が一番いいと思いました。空気を汚さないから温暖化にも寄与するし、早くそういう時代が来ないかと思いました。

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 社長さんは、お留守でしたが牛が10頭ほどおりました。かつて飯舘村は、飯舘牛というブランド牛の産地でその復活を考えているのだそうです。今のところ、定期的に血液検査をしているが問題がないと話されていました。ソーラーシェアリングの下に生える草が牛たちのエサになるのです。

 写真が撮れませんでしたが、小中一貫教育を目指す学校ができていました。時計台が据え付けられたおしゃれな立派な校舎です。「ここに今90人が通っていますが、この村に子どもが何人住んでいるでしょうか。」と質問されました。私は、「100人くらいですかね。」と答えますと、だれも住んではいないということでした。みんな他地域からバスに乗って通っていているのだそうです。しかも学校が終わった後は、東京から呼び寄せた塾の講師の先生が試験勉強をみてくれるおまけもついています。塾も無料です。

 そうやって帰還を促しているのかもしれませんが、子どもを抱える親は、フレコンバッグが野積みされているそばに住むことは不安で仕方がないはずです。

 かつての1割しか住民が帰ってきていないのに、予算はその頃の5倍も付いているそうです。村長は、この学校だけでなく公民館、道の駅などお金をかけた箱ものづくりに熱心だそうです。帰りたくとも帰れない人たちは、避難している自分たちには何も還元してくれないと不満が出ているということも聞きました。

 今の村の方針でいいのか考えてしまいます。

 2010年に飯舘村「日本で最も美しい村」連合に加盟したそうですが、翌年、皮肉にも原発の事故が起きて、村は全村避難となってしまったのです。

 長いレポートにお付き合いくださった方々ありがとうございました。