浅草・新吉原を訪ねて その1

 これもまた、もう一月も前のことです。

  4月初め学生時代の友だちの知り合いで浅草に住んでいらっしゃる方が江戸時代に歴史に登場した下町を案内して下さるという機会があり参加してきました。

 東京に何十年も暮らしてきたのに、いわゆる山の手地区と多摩地区しか知らない私にとって下町はほとんど知らない土地です。同じ下町散歩シリーズは今回で2回目。去年は忠臣蔵の舞台となった本所・深川界隈、今年は浅草・吉原です。

 今まで浅草には行ったことがあるものの、吉原に行くのは初めてです。2年ほど前に高田郁さんの「みをつくし料理帖」を読んでから、登場人物の一人「野江」が女衒に騙されて大阪から吉原へ連れてこられ「あさひ太夫」として生きていたのが吉原です。吉原とは頭の中で想像はするものの本当の吉原とはどんなところだったのかとても興味がありました。

 朝10時、ちょうど桜も満開、しかもお天気にも恵まれて待ち合わせの雷門前交番には大勢の観光客があふれていて会えるかどうか不安でしたが、無事皆さんと会うことができ一安心。ここから浅草寺に向かう真ん中の仲見世を通らず、右の袖道を北へと上って行きました。

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 何十年も浅草へは来ていなかったので、ふと見上げた屋根の上の白波五人男や地口行燈も見たことがありません。海外から来た観光客のみならず私のようなお上りさんにとっても、ここへ来れば江戸の雰囲気を味わうことができることに驚きました。

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 浅草神社です。浅草寺に来てもそのお隣にある神社にはお参りしたことがなかったので、存在そのものが新鮮でした。神社を出て左に曲がるとその裏通りには寺らしき表札のある建物がずっと続いていました。古地図を見るとこの辺りは寺が本当に多かったのがわかります。

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 そこからは、馬道を経て猿若町に入って来ました。ここも吉原と同じく中心部から芝居小屋を移転させてできた町です。1丁目には中村座、薩摩座、2丁目には市村座結城座、3丁目には河原崎座があったそうです。太字の三座が猿若三座と呼ばれているそうです。今は、市村座跡という碑があるくらいですが、通りには○○小道具という看板が出ているので今でも芝居と縁がある街のようです。

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 だいぶ隅田川に近づいてきました。ここは、「待乳山聖天」読み方がわかりませんよね。「まつちやましょうでん」と読むそうです。すぐ近くに池波正太郎の生家があったそうで、彼のエッセイには大川とこの待乳山聖天が出てくるそうです。

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 左に折れるとすぐに山谷堀と呼ばれる堀跡に到着です。大川(隅田川)に流れ込む堀の手前にあった橋が「今戸橋」。

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 堀は、今ではすべて埋められて公園となっています。この山谷堀が吉原へ行くルートの一つで、お大臣は、ここをチョキ舟に乗って吉原へ繰り出したそうです。

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 この先、正法寺橋、山谷堀橋、そしてこの紙洗橋と橋がいくつも続きます。この紙洗橋の紙洗いですが、この辺りは浅草紙という厚手の雑紙の産地だったそうです。使用した紙やぼろ布などを原料にしたいわゆる再生紙なので、時には墨で書いた文字がうすく残っていたような紙もあったそうです。

 ここで「素見・ひやかし」という言葉の語源について。

 紙すきの材料をしばらく水にふやかしておかなければならないため、職人さんがその間ちょっと散歩をしてくるといって出かける。吉原を素見に行き、帰ってくるとちょうどいい具合に紙がふやける。登楼していては紙がふやけすぎる。そこで、吉原をちょっと見たりからかったりして楽しむことを「素見・ひやかし」と言ったのではないかという話。

 なるほど! 言葉にも感心しましたが、浅草が紙の産地だったとはこれも私には新しい発見でした。江戸時代は、今よりもずっと環境に優しい生活だったと聞きますが、こんなところにも表れていることを知りました。

 続きは後日