浅草・新吉原を訪ねて その2

 前回の続きです。

 始めに位置関係がよくわからないと思うので、ツアーの折資料としてつけてもらった浅草・新吉原の古地図の一部をお見せします。

 左側に浅草寺の境内、右側の田地の上にある四角く囲われたところが新吉原です。

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 新吉原の街の中のようすです。

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 少し様子がお分かりかと思います。

 新吉原は、人形町近くにあった旧吉原が火事にあったため、周りが田地に囲まれた山谷へ越してきてできました。いちいち新吉原と書くのも面倒なので文の中では吉原と書いています。

 それでは・・・・

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 紙洗い橋からほど近いところに、「春慶院」という寺があります。

 ここは、吉原の太夫の中でも有名な名跡となっている「高尾太夫」の二代目の墓があるところです。「高尾太夫」と名乗る太夫は11人いるといわれています。2代目の高尾太夫は、「万治高尾」と呼ばれている名芸妓の一人です。伊達騒動の発端となった伊達綱宗とのロマンスもあったので、「仙台高尾」とも呼ばれているようです。

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 上のお墓がその「高尾太夫」のものです。意匠をこらした笠石塔婆、右面に

 「寒風にもろくもくつる紅葉かな」

という遺詠が彫られています。

 伊達藩の内命で作られたというだけあってなかなか立派なお墓です。この太夫のように遊女の階段を上り詰めたような名芸妓はほんの一握り、ほとんどの遊女たちは、苦労の挙句投げ込み寺でその一生を終えたことから思うとこの墓の主は、運が良かったと言えるかもしれません。

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 日本堤の通りを越えるといよいよ吉原へ入ります。入ったところから撮ったのでわかりづらいですが、ガソリンスタンドの入口に建っている柳の木を通称「見返りやなぎ」と呼んでいます。吉原から帰る途中、ちょうど柳の木のあたりで振り返り、遊女との一夜に思いを馳せるということなのでしょう。

 現在は何も残っていませんが、この近くに江戸ではすごく有名な「八百善」という料亭があったそうです。吉原にやってくる上客は、「八百善」で美味しい料理を食べて頃合いを見て、登楼したそうです。

 八百善をめぐるお茶漬けの話があります。

 すぐに食べられると思って茶漬けを注文したが、「ちょっと時間を頂きますがよろしいでしょうか。」という話はあったが、一向に出てこない。何時間も待った挙句出てきた茶漬けは、とても美味しかったが、代金を聞いて驚いた。「一両二分」今でいうと7万から10万円だという。何でそんなバカ高い茶漬けになったのかというと、

 ・香の物に出たものは、春には珍しい大変貴重な瓜と茄子。

 ・お茶は、宇治の玉露

 ・米は、越後の一粒選り。

 ・お茶を入れる水は、玉川上水の取水口で早飛脚に頼んで取ってきたもの。

 というわけで、この値段になったと聞いた客は納得して支払ったそうである。

 この話は、八百善の料理にこだわった一例を挙げたものだと思いますが、将軍家や文化人など八百善の料理はたくさんの人々を楽しませたようです。

 今も八百善は?と疑問に思い調べたところ、何と鎌倉にあることがわかりました。

 江戸の粋を集めた料理と器、そのうち私も行ってみたいと余計なことに気をまわしてしまいました。

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 日本堤通りから吉原へ入りました。見てもわかるようにカーブした道になっています。往来する人から吉原があからさまに見えないように、また中にいる遊女たちが外の世界が見えないように、わざとS字カーブにしているそうです。

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カーブの先です。右の先に「大門」がちらっと見えます。

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 この「大門」跡の茶色い柱辺りで道はまっすぐになっています。見返り柳から大門までが五十間。大門から仲之町といわれる吉原のメイン通りです。桜の咲く季節には、この通りに一夜にして桜の木が並び、客を迎えたといいます。この道から左右に道が分かれています。

 この「大門」は、犯罪者の取り締まりと遊女逃亡を見張ることを任務としていたところです。写真はありませんが、大門の右側を入った左側にちょっとした石垣が残っていました。それが、「お歯黒どぶ」と言われる幅が3m位の堀の跡だと説明されました。外部からの侵入と遊女の逃亡を防ぐために二重三重のしくみができていたということです。

 今は、この仲之町通りを埋めているほとんどが性風俗関係のお店です。あまりにたくさんあるので、そんなに需要があるのかと驚きます。江戸時代は、男性が7割という人口比率だったそうですから、吉原が人を集めたというのもわかるような気がしますが、現代においてもまだ必要・・・・

 遊女には、格付けがありました。「新吉原細見によると、先ほどの高尾太夫お抱えの三浦屋四郎左衛門の店では、「高尾太夫」が一番上に格付けされ、次に助六で有名な「あげ巻」という名があります。「あげ巻」は「格子」という格付けとなっています。格が上の遊女は、花魁と呼ばれていました。「高尾」も「あげ巻」も花魁です。

 この時代は、「太夫」の揚げ代は、文銀二枚で二両、今でいう20万円くらいだったようですが、時代が後になると遊女の格付けも貨幣の価値も変わっていくので一概に言えませんが、一夜を共にするために20万円を出せる人というのはほんの一握りだったと思います。

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 「吉原神社」です。吉原の一番西側にあります。遊女たちがお参りできる稲荷や神社がいくつかあったようですが、今はここに合祀されているようです。昔も今も女性の願いを聞き届けてくれるというので、女性の信仰を集めているそうです。現代の女性の願いと違ってここへ立つとかつて遊女たちが願ったことが想像できるようで、胸が痛みました。

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 吉原神社からすぐの所にある「吉原弁天池跡」にある小さな池です。

 大正12年の関東大震災の折、吉原で火事が起こり、大門を閉めたために逃げられなくなった遊女たちが飛び込んだ池がここにあったそうです。約400名の遊女が池に折り重なるように飛び込み、おぼれて命を落としたといわれています。

 何で大門を開けられなかったのでしょうか、欲に目がくらんだ人たちにとっては、女性の命が軽く扱われたということでしょう。犠牲になったのは、東北の貧しい家の出の女性が多かったそうです。生きるも地獄と言われた吉原でとうとう生きて出られなかった若い女性の無念な気持ちを思わずにはいられません。

 

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「吉原弁天池跡」のとても優しげな弁天様です。たくさんの女性たちの魂の供養のためにここに建てられたそうです。ちょうど満開のさくらがやわらかく包んでいるような気がしました。

 

 午後2時、ちょっと遅いランチをこの日参加した女性と男性10人余りといっしょに食べ、3時過ぎ解散となりました。雑踏の中でも聞こえるように、この日は団体さんが使うようなイヤホーンを用意してくれていたので、離れていてもガイドさんの話がよく聞こえて快適なツアーとなりました。

 

 帰りに雷門の前にある観光案内所があるビルの屋上まで上って夕暮れの浅草を眺めました。私は浅草が俯瞰できるこんな場所があることも知らなかったのに、外人観光客が何人もいたのには驚きました。f:id:yporcini:20190403174340j:plain

 薄あかね色に染まる春の夕暮れの浅草は美しいと思いました。 

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 灯ともし頃の雷門。

 朝ここを出発してまたここへ戻ってきたというわけです。

 春の一日が終わりました。