3・11を忘れないように

傍(かたわら)

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 (ドキュメンタリー映画)伊勢真一演出作品

 監督は、「人間は忘れていくけれども、映像記録は忘れない。」ということが大事なんだとこの映画の意味を語っています。

  この映画は、3・11の4日後から仲間のカメラマン、宮田八郎の友人である宮城県の亘理町に住むミュージシャンの苫米地サトロの消息を訪ねてカメラを持って入ったことから、始まった映画です。

 苫米地サトロの家は、床下まで水が入っただけで幸運にも無事、家族も無事でした。しかしながら、同じ地区でも住めない状態のところがたくさんあり、家族の命を失った人も大勢いたのです。 

 苫米地さんは、妻の圭さんや友人たちといち早く亘理町臨時災害ラジオ「FMあおぞら」を立ち上げ、日々の情報を毎日放送する活動をしていました。

 特に、直後の避難所で暮らしていた1人1人と向き合い、亡くなった家族のことを聞き取っている場面がありましたが、多くを聞き出すのではなく「ただそうだったんだ。」「そうかあ・・・」「体は悪いところないかな。」「ご飯は食べられてる?」と、その人にただ寄り添うように声をかけていることが印象的でした。

 また、時には災害ボランティアで頑張っている高校生をスタジオに呼んでインタビューして、その前向きな力強い声を拾って放送している場面もありました。聞いていてなんだか明るい気持ちになったのは、私だけではないと思います。

 一番つらい放送は、亡くなった人の地区と名前と年とをお1人お1人紹介するものでした。春が過ぎ、夏が過ぎ、秋が過ぎてもその放送は何回も続けてなされていましたが、その度に泣き声になりそうなのをこらえていました。地区の様子と一人一人の様子が想像できてしまうのだろうと思いました。

 カメラマンは、月命日に墓参りをするようにカメラを毎月回していました。

 夏のお盆にはオレンジ色の灯篭が本当に海いっぱいに広がっている様子、大晦日の花火が打ち上げられる年越しの様子、新年、何事もなかったかのように波が打ち寄せる浜へ出て、初日の出を拝もうとしているたくさんの家族の姿も写していました。

 苫米地さんのほかに、福島の相馬郡飯館村のもう1人の友人の所にも足を運び、今は、原発事故災害で放射線量が高く、全村避難地区になっているところも写しています。

 私には今何かができるわけではないけれども、たった一つ、このことを忘れずにいることが大事なのだと・・そんなことを今思っています。

  3・11に関わるドキュメンタリーは、きっとたくさんあるのかもしれません。私は、去年の7月の末からテレビを受信していません。日々テレビから様々な情報を受け取ることはできていないので、映画館でのこういうまとまった情報はとても大事です。