妙高高原の初夏 その4

 3日目、朝カーテンを開けるとどんよりしていましたが妙高山は辛うじて姿を見せて

いました。この日は、山麓バスに乗り「苗名滝(なえなだき)」と「いもり池」へ行く

ことにしました。

 

 山麓バスは、2日間使い放題で1000円。私たちのように車で来ていない客にと

ってはありがたい乗り物です。休暇村の玄関がバス停なのでそこから前日も通った赤倉

温泉方面を通り黒姫山の方向へ山道を進みます。

 新潟と長野の県境だという関川沿いの道を右に曲がるとすぐに駐車場。この地域では

有名な観光地ながらウィークデーのせいか車も少なくて寂しげです。

 

 砂防堰提を右に見ながら階段を上り川の左岸を登って行きます。道の両側は名前はわ

からない木々ながら豊かな林を形成していました。

 撮ってきた写真とにらめっこして、3時間ほどネットで名前を調べわかった植物が二

つありました。

 一つは、ヤグルマソウ。花では見分けられませんでした。この植物の一番の特徴

は大きく5つに分かれた葉っぱでした。ヤグルマソウというと、春に咲くヤグルマギク

のことだと思っていました。小さい花ながらようく見るとその一つ一つが金平糖のよう

でこいのぼりの先に付ける矢車に似ているような気がします。そこから名前が付いたの

かもしれません。今回苦労したのできっと忘れないと思います。

 もう一つ分かったのは、ほとんど白い花ばかりだった中で唯一黄色の花だった

「オオダイコンソウ」。図鑑を持って行ってそばでゆっくり見たわけではないので

定かではありません。これも似たような花が多いので、葉っぱを手掛かりにしました。

 

 突如、句碑が登場です。小林一茶が1813年4月にこの地を訪れた時に読んだ句だ

と言われています。

 「瀧けぶり 側で見てさへ 花の雲」

 一茶は、吟行であちこちへ出かけていますが、出身はこの近くの北国街道柏原(現

在の信濃町)。ここへやってきた時に、滝を見た感動を読んだ句だと思われます。

 滝の音が大きく聞こえてきました。川の反対側に行くために吊り橋を渡ります。

 

 右側へ出たからと言って簡単に滝つぼへ近づけるわけではありません。ゴロゴロした

大きな岩を乗り越えて進むしかないので、途中までしか行けません。私は、近頃脚に自

信がないのでここまででギブアップです。

 

 一茶が句にしていた通りです。ものすごい水量なのでこの時期でさえゴーッ、ドーン

いう水が流れ落ちる音とともに水けむりが上がっています。

 雪解けの時期はさらに水量が増し地震かと思うほどだということで、この地方で地震

のことを「なゐ」とよんでいたのが「なえ」に変化したと言われています。

 この水は関川として米どころの下流域に流れ、田植えの頃の大事な水源になっていた

ことも重なり「苗名」と呼びならわされ、今に至っているそうです。

 

 落差は、55mと、一日目に見た落差80mの惣滝に及びませんが、水量の多さには

驚きます。岩は火山が冷えた時にできる柱状節理で自然の歴史の奥深さを感じます。

 無事戻ってこられたので、駐車場で次のバスを待ちもう一つの目的地、「いもり池」

まで向かいます。

 「いもり池」です。名前の通り昔はいもりがたくさん生息していたそうなので、この

名で呼ばれています。天気が良いとこの池に妙高山がきれいに映し出され、その様を写

真に撮ったポスターとして駅に飾られているのでご覧になった方がおられるかもしれま

せん。

 

 今の時期は、スイレンに覆われていますが、春の早い時期は池の縁をミズバショウ

美しく彩ります。曇っていてぽつぽつ雨も降ってきましたが、妙高はちゃんと姿を見せ

ていてくれました。

 

 ここに新しいビジターセンターができてちょっとしたカフェも併設されていました。

 友人は、

 「昔は建物が古くてトイレも外にあったのに、広くなってトイレが室内にそれも最新

式のものが出来ていてビックリ。」

と、言っていました。この言葉を何回も口にしていたので、その落差がすごかったのだ

ろうと推察しました。

 地元のコーヒー店から提供された美味しいコーヒーがあったので、コーヒーとバナナ

ケーキをスタイリッシュな椅子に座っていただきました。

 池の周りは、一周15分くらいで廻れるバリアフリーの道がついていたので、歩いてみ

ました。対岸から見たビジターセンターです。右半分が本来のビジターセンター部門、

左側が衣料品やお土産などの売店とカフェです。

 

 妙高山寝ても覚めても滞在中ずっと見えていたので、それが一番の旅の思い出で

す。我らは、自称「百名山を眺める会」なので、今回は妙高山火打山、と2つの山も

眺められ、会の目的はしっかりと果たせたのは大きな収穫です。

 

 おまけ。

 翌日は、長野駅で下車。善光寺をお参りしてから、門前の山城屋さんで三門そばを食

べました。相変わらずの欲張りで、とろろ、ふつう、くるみとつけダレが3つ付いた戸

隠そば。

 

 最後がずっと書けなくてそばで閉めました。(旅行記終わり)

 
 

妙高高原の初夏 その3

 

 ウシたちの背中には何やら書いてあると思って写真を撮ったら、三四と書いてありま

した。名前ではなく番号で管理されているようです。

 草地を抜けると林に入って行きます。

 牧場のちょうど中ほどに「宇棚の清水」という水が湧くところがありました。

 年間を通じて豊かな水量を誇り「平成の水百選」に選ばれている清水だそうです。

 ここで一休み。

 

 休暇村のお兄さんが用意してくれていた紙コップに湧き水を入れて飲みました。本当

に美味しい水です。持っていたペットボトルにも水を入れました。

 妙高、火打、黒姫など名だたる山の恵みを集めた水が透き通った音を立てながら流れ

下って行きます。水の音を聞いているだけで心地よくなるのはなんででしょうか。

 小川に沿ったところに赤いクリンソウが咲いていました。緑の中にひと際赤く目

立っています。

 今日のお弁当の予定の「清水が池」までもう一息です。

 「清水が池」に到着です。池の周りには、レンゲツツジが植わっていました。

 赤いのも、黄色いのもあります。

 天気がいいと青い空を背景にした妙高山の姿が池の水に映るそうですが、曇っていて

鏡池のようにはならなかったのは残念です。

 お昼は、休暇村で作ってくれた名物の「笹寿司」でした

 クマザサの上にすし飯をのせタケノコ、赤紫蘇、野沢菜、ワラビ、チリメンザンショ

をのせたこの地域のローカルフードです。おにぎりかと思っていたので予想を裏切って

くれて嬉しかったです。

 

 

 この後は、ドイツトウヒの森に入ります。写真はこれしかありません。およそ60ha

の土地に約一万本のドイツトウヒが育っています。この日も私たちだけでしたが、薄暗

いので一人で歩くのは怖いような気がします。

 松ぼっくりは長さが15‘㎝もあろうかというほど大きくてクリスマスの飾りに使える

ような立派なものです。

 ここでガイドさんが「この木はヨーロッパで何に使われてきたか」というクイズを出

しましたが、この木は有名なバイオリニストが使うようなバイオリンに使われてきた木

だそうです。

 

 どうも私は下向き傾向があるようで、ドイツトウヒの写真はちゃんと撮っていないの

に、陽の光が届かないような林床に咲く可憐な花に目が行っていました。

 

 この白い小さな花は、「タニギキョウ」と言います。ほんの5㎜位の花です。小さな

昆虫がちゃんと蜜を吸いに来てくれていますね。

 

 次の植物は葉っぱがないので光合成せず土の中の菌類から栄養をもらっている腐生植 

物で「ギンリョウソウ」と言います。薄暗いところに出てくることもあって、ユウレイ

ダケなどというあだ名もついています。

 およそ4時間くらいの行程で案内をしてくださったガイドさんの話は、植物の名前だ

けでなく歴史にも触れ、太平洋側と日本海側の植生の違いも気づかせてくれてすごく楽

しいハイキングになりました。

 すぐにメモを取ったりしていなかったので、写真はあってもこれは何だっけ?という

のがまだたくさん残っていました。

 豊かな森や気持ちの良い草地を歩くのはそれだけで生き返るようです。

妙高高原の初夏 その2

 2日目、宿の窓からの妙高山。雲が多いとはいえ晴れです。

 ここは、冬はゲレンデになるところです。

 

 この日は休暇村が主催するガイド付きのハイキングの日、前日までの申込制でしたの

で、雨だったらいやだなと思っていましたが、そんな心配もなく出発できました。

 

 休暇村から山道を横断して赤倉温泉、池の平温泉、杉之原温泉と南西の方向へ進み、

そこから高度を上げ、約50分くらいで出発地笹ヶ峰牧場へ到着します。そこまでは宿

のマイクロバスで送ってくれます。

 

 宿のお兄さんと今日のガイドさん、それに参加者6名、総勢8名です。私たちも高齢

者ですが、全員が同じ年ごろですので安心しました。

 笹ヶ峰牧場は、標高1300mくらいのなだらかな平原ですのでいろんな利用法が考

えられたようです。江戸時代、木地師が入植しましたが20年余りで撤退、次にジャガ

イモの栽培のため開拓されましたが、ジャガイモに病気が出て全滅、明治時代に入り牧

場として利用されるようになり今日に至っています。

 

木地師開拓の碑

 この辺りは冬は豪雪地帯ですので、生活をするのは筆舌にしがたい苦労があるのだろ

うと想像できました。

 牛の放牧も5月から11月くらいまでしかできません。その代わり夏は、湿気も少な

く快適な気候のようで温暖化が進む今日、牛がうらやましく思います。

 6月に入るとこの辺りは黄色いウマノアシガタキンポウゲ科が一面に咲くと

聞いていましたが、日当たりのよい草地に群生していました。ちょっと光沢のある花弁

をきらめかせて草地を彩っています。

 

 花が咲く草本の方に目が行きがちですが、ガイドさんは森の成り立ちにも目が向くよ

うに木本の方も詳しく案内してくれました。

 日本海側には、この木が多いそうです。ミズナラの木です。地上1mの幹回りが

3m以上の木を巨木と呼ぶそうで、このミズナラもおそらく巨木ではないかと思われま

す。大きな木は見ていると圧倒されます。たくさんのドングリを実らせてクマがふもと

まで下りてこないように願いたくなります。

 これも日本海側に多いタニウツギ。別名カジバナとも呼ばれるそうです。関東近

辺ではこれと似たウツギで、ハコネウツギというのがありますが、それは花の色が変化

します。

 モミジに種が出来ています。気が付きませんでしたが、この種の付き方はやはり日本

海側のものだそうです。太平洋側のモミジは葉の上に、日本海側のタネは、葉の下側に

ついているのだと教えてもらいました。

 

 たった林の中の何本かの木についても、日本海側の植生と太平洋側の植生がだいぶ異

なっていることを教えてもらいました。植物観察というのは、始まって1時間くらいで

も奥が深いなと気づかされました。

 

 初見の植物

 「クルマムグラ」です。似た花でクルマバソウというのがあります。車輪のような6

枚の葉が特徴のかわいい花で、初見です。休暇村のお兄さんが葉っぱの数を数えて同定

してくれたので覚えました。

 同じく初見の花で「ベニバナイチヤクソウ」。イチヤクソウは、ふつうは白い花です

が、ピンク色の花でした。ここには2,3本しか生えてませんでしたが、別のところに

もっとたくさん群生しているところも見つけました。

 

 この続きは次回に。

妙高高原の初夏 その1

 先週の水曜日から3泊4日で新潟と長野の県境に位置する妙高高原に行ってきました。

 上の写真は1日目に行った燕温泉の黄金の湯から見えた妙高山です。

 

 私一人ではここへ来ることはなかったと思いますが、この3年ほどずっと一緒に行っ

ている友人のお誘いです。彼女は、若い頃からスキーヤーで長野や新潟それに東北など

めぼしいスキー場はほとんど知っているという強者。ここ妙高もスキーのメッカですか

らもちろんかつての遊び場、土地勘があるところなので、今回は初めから終わりまで彼

女のお膳立てでの旅です。

 

しなの鉄道 

                     はねうまライン
                     

 東京発7時24分の「あさま号」に乗り、長野へ9時13分に着きます。そこから先

の電車には私も乗ったことがなかったのです。かつてはJR線だっただろうしなの鉄道

乗り換え、10時8分に妙高高原駅に到着ですが、今回の宿「休暇村 妙高」は次の

「関山」まで行くと送迎バスに乗れるということなので、ホームの反対側で待っている

えちごトキめき鉄道妙高はねうまラインと名前が付いた列車に乗り換えます。

 

 駅員のいない関山駅で下車、改札口の乗車券入れに切符を入れてちょっと周辺を見回

しても食堂も酒屋さんもまだ開いていません。

 10分ほど待ってお迎えのワゴン車に乗り、「休暇村妙高」へ向かいました。宿でチ

ェックインをして荷物を預かってもらい休暇村の玄関発着の市営バスに乗りました。

 

 目指す燕温泉は、バスで15分余り行ったところで妙高山登山口がある秘湯と呼ばれ

る温泉です。イワツバメがビュンビュン飛び交い旅館の屋根の下にたくさんの燕の巣が

ありました。

 バスの中にその燕温泉の宿の女将さんが乗っておられました。とは知らず、私は、

「不便なところほどいいところですよね。空気もきれいだし、自然が豊かですから

ね。」というと

 「おっしゃる通りです。」

と返事が返って来てちょっとほっとしました。

 

 燕温泉の旅館は5軒あったと思いますが、バス停から15分ほど上ると「黄金の湯」

という公共野天風呂があり、原則無料で入れます。

 左の岩の反対側は、男性、右が女性用です。乳白色の温めの湯で湯の花が浮かぶ温泉

です。手前に脱衣場もちゃんとあります。

 

 周りの林からは、小鳥の声や春ゼミらしい蝉の声が聞こえ、うっとりと癒されまし

た。後で蝉の名前を教えてもらいましたら、「エゾハルゼミ」だろうとのこと。ヒグラ

シの声を野太くしたような音色です。

 私たちが入ったときは、男性用のお風呂からも声は聞こえず、自分たち二人だけの世

界でした。吹き渡る風もさわやか、なんとも言えない気持ちよさでした。

 

 お湯に入らせてもらった気持ちを入れるように入口にお賽銭箱が置いてありました。

 なので、原則無料ですが、この気持ちよさにみな賽銭を入れて帰るだろうと思いまし

た。

 

 温泉に入る前、少し上の方にある展望台へ行ってみました。谷の向こうに見える

滝を見るための展望台です。ちょっと大きくしてますが、なかなかの迫力。「惣滝(そ

うたき)」と言います。落差80m、日本の滝100選に選ばれているのだとか。

 

 

 上から見た燕温泉街。手前右側に唯一のおみやげ物屋さんがあります。

 帰りにアイスを買って、女主人とバスの時間もあったので50分ほどおしゃべりをし

ました。

 お店を休めないので私たちのように友だちと連れ立って旅へ行くこともないし、毎日

温泉に入っているけれど、ゆっくりと浸かることがないといっておられました。

 冬は雪も深いし、なかなか厳しいこの温泉場で暮らす人たちの生活の一端を知るいい

機会でした。

 温泉街に下る手前に生えていた「オオヤマオダマキ」。背が高くとてもたくましいオ

ダマキでした。

 (続きます。)

 

「テレビで会えない芸人」松本ヒロライブ

 もう10日も前のことです。

 去年の秋と今回で2回めですが、新宿の紀伊国屋ホールで松本ヒロさんのライブを観

てきました。

 ライブは2回目ですが、2021年に鹿児島テレビが制作した「テレビで会えない芸

人」というタイトルのドキュメンタリーを観ていますので3回目ということになりま

す。

 

 芸人といっても、いろんなタイプの方がいますが、彼は、世の中の政治、経済、あら

ゆることに感性を巡らし誰に忖度することもなく披露してくれます。庶民が普段思っ

ている心の中のもやもやしたものを引っ張り出して笑いに昇華してしまうので、このラ

イブに癒される人もたくさんいるのではないかと思います。

 

 でも、こういう人だから政治家に忖度するようなマスコミ、特にテレビ局には採用さ

れません。だから、テレビには出ることが叶わないのです。

 私も15年ほど前まではテレビ受像機を持っておりましたが、大事な真実を知らせて

くれないテレビには愛想をつかし、テレビは捨てました。

 

 彼は、日本国憲法を読み込み、絵本「憲法くん」も出版しました。彼の語る憲法を聞

いていると再度憲法に惚れ直すことができました。心が奮えてくるのです。小学生の頃

日本が戦争を放棄するという9条を知った時の感覚がよみがえってくると私の心も捨て

たものではないなと思います。

 

 今回は、もちろん自民党の裏金問題がネタになります。おにぎりを1個万引きした老

人は捕まり、4千万円以下の裏金を懐に入れた政治家は捕まらない。とフライヤーには

書いてありましたが、そんな理不尽が許される社会ってまともではないですよね。

 

 彼は、パンマイムが得意でそんなネタを身振り、手振り、口振りで1時間45分もの

長い時間をひとり舞台に立って演じます。アメリカではスタンドアップコメディという

独自の分野が確立していますが、日本ではまだまだのようです。

 

 チケットは、発売数日でなくなるほど人気です。

 

 この日は、午後3時開演でしたので、友人と紀伊国屋のエレベーターのところで待ち

合わせてランチをしました。新宿も変わりました。さっと見回しても、紀伊国屋、伊勢

丹、それに知っているのは「中村屋」くらいしかないのを知っていたので、二人で知っ

ている「中村屋」でインドカレーを食べることにしました。

 

 といっても、若い頃はお金もなく噂だけで食べたことがなかったのでとっても新鮮

な気持ちでした。今は、地下2階に下りたところにある「manna」という名前のレスト

ランでカレーや洋食が食べられるようになっていました。

 

 私が食べたのは、「野菜カレー」。友人は看板メニューの「インドカレー」。

 野菜サラダと飲み物を付けてもらいました。思っていたより高く庶民のカレーとは言

えなくなってきたなと思いました。

 

 でもスパイスが効いていて甘さも感じるカレーで、さすが中村屋だなと思いました。

残った戦跡ー明治大学平和教育研究所資料館その2

 3月に一度、そして5月に友人を連れて2度訪ねました。

 2度訪ねた甲斐があり、太平洋戦争が教科書の中の文章のようでどこか掴みよ

うのない出来事だったのがかなりリアルによみがえってきました。

 

 まず最初に動物慰霊碑に行きました。

 これは逆光で文字が黒くて読めないのですが、動物慰霊碑と刻まれています。

 文字の通り読めば実験に使った動物の死を悼んで作ったものですが、毒物の実験では

それが人間にとって死に至るまでの時間などその効果がどれほどのものか確かめなくて

はならないものである以上、単に動物だけとは限らないだろうということでした。

 1943年に当時の首相兼陸相東条英機から陸軍技術功労章の副賞としてもらった

一万円(現在の1000万円)を使って建てた碑なんです。こんなに大きな慰霊碑は他

では見当たらないそうです。

 裏へ回ると年月日と研究所が建立したことが残されています。

 

 これは、消火栓です。これと同じものがあと一か所残されていますが、陸軍の星のマ

ークがついているので、その時代に使われていたものだとわかります。

 

 次に回ったのは、弥心(やごころ)神社。1943年に戸山が原にあった陸軍科学研

究所の「八意思兼神」という研究の神が祭神として分祀された神社です。小さなお社が

正面にあり、今は生田神社と呼ばれています。

 ここの境内には上にある碑が立っています。

 これは、建立の日付を見ればわかるように昭和63年(1988年)、今から36年

前のもので、ここでかつて働いていた有志が建立したものです。

 「すぎし日は この丘にたち めぐり逢う」と刻まれています。

 

 ここで働いていた何百人という人たちは、1945年8月15日の敗戦を境に後始末

を終えた後、ここであったことは「墓場まで持っていこう」と、胸の奥深くにしまって

誰にも話してこなかったといわれています。もうあの頃のことを話しても許されるので

はないかと思い始めた人たちが昭和も終わるころぼつぼつと現れたといいます。

 

 この頃元所員たちによって、登戸研究所での出来事が高校生や市民にも語られるよう

になりそれが今残されている平和教育研究所資料館に結実したそうです。

 

 弾薬庫の跡といわれている建物です。風を通すためにドアが開いていました。 

 

 平和教育研究所資料館の入口です。登戸研究所が使っていた建物をそのまま利用して

できるだけ中の設備なども残すようにして利用されています。

 この建物は第二科(毒物、薬物、生物兵器、スパイ用品を扱う)が研究施設として使

ってきた建物でした。暗室に使っていた部屋に入り灯りを消した途端、部屋にはどこか

らも光が入らない真っ暗闇になったので驚きました。

 資料館は、この建物だけですからニセ札づくりのことも、電波兵器のことも展示され

ていました。もちろん、前回の風船爆弾のことも。

 

 

 日本が敗戦後、この旧陸軍登戸研究所は軍の命令で残っていたニセ札、毒物、生物兵

器、実験器具、関係書類の焼却、埋設処分するなどの証拠隠滅作業を徹底して行い、作

業の翌日には解散式を行ったといわれます。

 戦後すぐに米軍に接収されましたが、日本に返された後は、ここの国有地を明治大学

が買い取り現在に至ります。

 

 戦後この旧登戸研究所のことを調べようとしても誰も口を開く人はなかったのが、4

0年近くたって大人には口をつぐんでいた元所員たちが、高校生たちのひたむきな姿に

だんだん心を開き少しずつ話をするようになったのが平和教育研究所資料館へ結実した

ということです。

 

 敗戦を経験してまだ80年経つか経たないかです。ずっとかなたの出来事ではないのに

日本では加害の歴史に関しては語られず若い世代に継承されて行かないのがかなり問題

だと思います。

 

 日本が戦争になったときー軍拡の時代と秘密戦ー

 これが今回の展示のテーマでした。

 今まさに同じような状況になり始めているのではないかと思います。戦争が始まる前

には戦費が必要になるので庶民の生活はそっちのけ、軍拡が今も始まっています。

 

風船爆弾って? 明治大学平和教育登戸研究所資料館見学1

 先週の土曜日、戦前風船爆弾が計画されていたという通称登戸研究所があった所へ見

学に行ってきました。

 

 1か月に2回資料館の専門家が見学会を開いてくれる日があり、予約をした25名を

案内してくれます。3月にボランティア仲間と来たのですが、友人が行きたいというの

で、2回目の参加となりました。

 

 {登戸研究所とは、旧日本陸軍が秘密戦のための兵器・資材を研究・開発するために

設置した研究所で一般にはその存在は秘密にされていました。

 秘密戦とは、

防諜(スパイ防止)・諜報(スパイ活動)・謀略(破壊・攪乱活動・暗殺)・宣伝(人

心の誘導)の4つの要素から成り立っていて、戦争には必ず付随するものの、

主として水面下で行われる戦いのことです。}(*ガイドブックより)

 

 さて、その風船爆弾とは?

 敷地に残るものを見た後、旧日本軍の研究施設をそのまま保存・活用して資料館にし

てある貴重な現在の展示棟に入り、風船爆弾の模型をみることができました。

 これは、本物の十分の一に縮小されたものです。(実際は、直径10m)

 

 気球の部分は、大きな画用紙くらいの気球紙と呼ばれる和紙を張り合わせて作ったも

のだそうです。こんにゃく糊を使って貼り合わせたそうですから、気球の作製が始まっ

てからは、こんにゃくが市場から消え去ったそうです。

 和紙を張り合わせる作業は、主に女学生たちが動員されたそうです。 

 一つの気球を作るために確か3000枚の和紙が使われるということでしたから、そ

の作業は材料も莫大な量が必要だったでしょうし、時間もかかったものと思われます。

 

 

 気球内部には水素ガスが充填され、懸吊部(つり下がっている部分)は、砂袋、高度

維持装置と通常焼夷弾などの兵器からなっていました。

 

 アジア太平洋戦争末期にアメリカ本土を直接攻撃する兵器として1944年から19

45年にかけておよそ9000キロを飛行させました。放球された数は9300発、千

葉県の一宮、茨城県の大津、福島県の勿来の三か所に放球基地が設置されたそうです。

 

 今のようなドローンとは違って簡単に飛ばすことは叶わないはずなのに、と思います

が、日本中の科学者や気象学者なとが集められ、この気球作戦が練られたといいます。

 

 アメリカまで偏西風に乗って東に移動し、外気の気圧により気球内部のガスが膨張し

たり、想定より高くなるとガスがバルブから放出される。夜になると気温の低下に伴い

気球が収縮して高度が低下、するとつり下がった砂袋が高度維持装置の働きで投下し始

め、また高度が回復する。というような仕組みになっていて、およそ2昼夜半かけてア

メリカ上空に辿り着く設定がなされていました。

 

 結果は

1944年に放球時の事故で6名の兵士が亡くなり、1945年にはアメリ

オレゴン州でピクニック中の子どもと大人6名が不時着した風船爆弾に触れて死亡す

るという被害があったといわれています。

 アメリカではこの風船爆弾のことを察知して場所や数を集計して対策していたようで

すが、国内の混乱を避けるため、知らせていなかったということです。361か所10

00発以上が着弾したと推定されています。

 *続きます。