先週の土曜日、戦前風船爆弾が計画されていたという通称登戸研究所があった所へ見
学に行ってきました。
1か月に2回資料館の専門家が見学会を開いてくれる日があり、予約をした25名を
案内してくれます。3月にボランティア仲間と来たのですが、友人が行きたいというの
で、2回目の参加となりました。
{登戸研究所とは、旧日本陸軍が秘密戦のための兵器・資材を研究・開発するために
設置した研究所で一般にはその存在は秘密にされていました。
秘密戦とは、
防諜(スパイ防止)・諜報(スパイ活動)・謀略(破壊・攪乱活動・暗殺)・宣伝(人
心の誘導)の4つの要素から成り立っていて、戦争には必ず付随するものの、
主として水面下で行われる戦いのことです。}(*ガイドブックより)
さて、その「風船爆弾」とは?
敷地に残るものを見た後、旧日本軍の研究施設をそのまま保存・活用して資料館にし
てある貴重な現在の展示棟に入り、「風船爆弾」の模型をみることができました。
これは、本物の十分の一に縮小されたものです。(実際は、直径10m)
気球の部分は、大きな画用紙くらいの気球紙と呼ばれる和紙を張り合わせて作ったも
のだそうです。こんにゃく糊を使って貼り合わせたそうですから、気球の作製が始まっ
てからは、こんにゃくが市場から消え去ったそうです。
和紙を張り合わせる作業は、主に女学生たちが動員されたそうです。
一つの気球を作るために確か3000枚の和紙が使われるということでしたから、そ
の作業は材料も莫大な量が必要だったでしょうし、時間もかかったものと思われます。
気球内部には水素ガスが充填され、懸吊部(つり下がっている部分)は、砂袋、高度
維持装置と通常焼夷弾などの兵器からなっていました。
アジア太平洋戦争末期にアメリカ本土を直接攻撃する兵器として1944年から19
45年にかけておよそ9000キロを飛行させました。放球された数は9300発、千
葉県の一宮、茨城県の大津、福島県の勿来の三か所に放球基地が設置されたそうです。
今のようなドローンとは違って簡単に飛ばすことは叶わないはずなのに、と思います
が、日本中の科学者や気象学者なとが集められ、この気球作戦が練られたといいます。
アメリカまで偏西風に乗って東に移動し、外気の気圧により気球内部のガスが膨張し
たり、想定より高くなるとガスがバルブから放出される。夜になると気温の低下に伴い
気球が収縮して高度が低下、するとつり下がった砂袋が高度維持装置の働きで投下し始
め、また高度が回復する。というような仕組みになっていて、およそ2昼夜半かけてア
メリカ上空に辿り着く設定がなされていました。
結果は
1944年に放球時の事故で6名の兵士が亡くなり、1945年にはアメリカ
のオレゴン州でピクニック中の子どもと大人6名が不時着した風船爆弾に触れて死亡す
るという被害があったといわれています。
アメリカではこの風船爆弾のことを察知して場所や数を集計して対策していたようで
すが、国内の混乱を避けるため、知らせていなかったということです。361か所10
00発以上が着弾したと推定されています。
*続きます。