3月に一度、そして5月に友人を連れて2度訪ねました。
2度訪ねた甲斐があり、太平洋戦争が教科書の中の文章のようでどこか掴みよ
うのない出来事だったのがかなりリアルによみがえってきました。
まず最初に動物慰霊碑に行きました。
これは逆光で文字が黒くて読めないのですが、動物慰霊碑と刻まれています。
文字の通り読めば実験に使った動物の死を悼んで作ったものですが、毒物の実験では
それが人間にとって死に至るまでの時間などその効果がどれほどのものか確かめなくて
はならないものである以上、単に動物だけとは限らないだろうということでした。
1943年に当時の首相兼陸相の東条英機から陸軍技術功労章の副賞としてもらった
一万円(現在の1000万円)を使って建てた碑なんです。こんなに大きな慰霊碑は他
では見当たらないそうです。
裏へ回ると年月日と研究所が建立したことが残されています。
これは、消火栓です。これと同じものがあと一か所残されていますが、陸軍の星のマ
ークがついているので、その時代に使われていたものだとわかります。
次に回ったのは、弥心(やごころ)神社。1943年に戸山が原にあった陸軍科学研
究所の「八意思兼神」という研究の神が祭神として分祀された神社です。小さなお社が
正面にあり、今は生田神社と呼ばれています。
ここの境内には上にある碑が立っています。
これは、建立の日付を見ればわかるように昭和63年(1988年)、今から36年
前のもので、ここでかつて働いていた有志が建立したものです。
「すぎし日は この丘にたち めぐり逢う」と刻まれています。
ここで働いていた何百人という人たちは、1945年8月15日の敗戦を境に後始末
を終えた後、ここであったことは「墓場まで持っていこう」と、胸の奥深くにしまって
誰にも話してこなかったといわれています。もうあの頃のことを話しても許されるので
はないかと思い始めた人たちが昭和も終わるころぼつぼつと現れたといいます。
この頃元所員たちによって、登戸研究所での出来事が高校生や市民にも語られるよう
になりそれが今残されている平和教育研究所資料館に結実したそうです。
弾薬庫の跡といわれている建物です。風を通すためにドアが開いていました。
平和教育研究所資料館の入口です。登戸研究所が使っていた建物をそのまま利用して
できるだけ中の設備なども残すようにして利用されています。
この建物は第二科(毒物、薬物、生物兵器、スパイ用品を扱う)が研究施設として使
ってきた建物でした。暗室に使っていた部屋に入り灯りを消した途端、部屋にはどこか
らも光が入らない真っ暗闇になったので驚きました。
資料館は、この建物だけですからニセ札づくりのことも、電波兵器のことも展示され
ていました。もちろん、前回の風船爆弾のことも。
日本が敗戦後、この旧陸軍登戸研究所は軍の命令で残っていたニセ札、毒物、生物兵
器、実験器具、関係書類の焼却、埋設処分するなどの証拠隠滅作業を徹底して行い、作
業の翌日には解散式を行ったといわれます。
戦後すぐに米軍に接収されましたが、日本に返された後は、ここの国有地を明治大学
が買い取り現在に至ります。
戦後この旧登戸研究所のことを調べようとしても誰も口を開く人はなかったのが、4
0年近くたって大人には口をつぐんでいた元所員たちが、高校生たちのひたむきな姿に
だんだん心を開き少しずつ話をするようになったのが平和教育研究所資料館へ結実した
ということです。
敗戦を経験してまだ80年経つか経たないかです。ずっとかなたの出来事ではないのに
日本では加害の歴史に関しては語られず若い世代に継承されて行かないのがかなり問題
だと思います。
日本が戦争になったときー軍拡の時代と秘密戦ー
これが今回の展示のテーマでした。
今まさに同じような状況になり始めているのではないかと思います。戦争が始まる前
には戦費が必要になるので庶民の生活はそっちのけ、軍拡が今も始まっています。