宮古から朝8時の北リアス線に乗って小本というところまで行く予定でしたが、はやく行っても接続のバスがないというので、9時過ぎに出る路線バスを使って行くことにしました。
一時間ほど余裕があったので、歩いて10分ほどの宮古卸売り市場へ。
宮古もほかの町や村と同様震災の被害に遭いました。
海岸近くは、まだまだ広い空き地が広がっていましたが、宮古駅へ通じる目抜き通りは、その傷跡を見つけることはできませんでした。
どんこ
「どんこ」、初めて見た魚です。
口からガムでも膨らませているかのように、空気袋が出ています。
タラのお仲間らしく、深海に住んでいるので引き上げられると風船のように膨らむみたいです。
鍋にすると美味しい魚だそうです。
りんご
真ん中に産直広場というのがあります。そこでは自分のうちでとれた野菜や果物を売っていました。お母さんに赤いりんご(1つ100円)を剥いてもらって食べました。りんごの名前は忘れましたが(津軽かな)、酸味もあり、甘味もあり美味しかったです。
一回りして駅へ戻り、9時15分のバスで小本を目指しました。
途中山の中に仮設住宅が建てられているところを何箇所か見かけました。
規模が大きい仮設住宅では、プレハブの銀行や商店街もできていて、ちょっとした町が出現していました。
途中、防潮堤で世界的に有名な田老町を通りました。
この震災では、X型の堅牢な防潮堤も津波がやすやすと乗り越え、37mくらいの高さまで山を駆け上がったということです。防潮堤で安全を得ることは結局できなかったので、これからどうするのか考え方を変えなくてはならないのだと思います。
田老町も、岩泉町の小本も大きな被害を被ったことは言うまでもありません。
小本では、乗り継ぎの次のバスまで1時間半ほどあったので、駅で待っているのはもったいないし、荷物を預かってもらって、暑い中、海の見えるほうへ歩いていきました。
小本海岸
ここも防潮堤がずたずたに壊れたので、その補修工事が進められていました。
天気がよく、青い空にはスーッとした秋の雲が浮かんでいました。ここも震災前は遊覧船が海を一周するような景勝地でした。
小本からバスで30分、田野畑駅に着きました。
田野畑駅
この田野畑駅から北リアス線に乗ります。
ここで、また一時間ほど待ち時間がありました。
この長い待ち時間を過ごすために駅の中には、小さな図書室がありました。
大人の本も子どもの本も置いてあり、畳に座って読むことができます。
その隣には、小さな軽食堂もありました。でも、その時間は、女性が一人いただけでしたので、駅の切符を売る仕事をやりながら、食堂も売店もやるのは大変だなと思いました。
北リアス線の駅には、みんな愛称があって、ここは「カンパネルラ田野畑」です。岩手県の人は、宮沢賢治をすごく愛しています。
「銀河鉄道の夜」の本の中に登場するカンパネルラをなぜ愛称にしたのか説明した看板がありました。
この地域は、百数十年前の飢饉に際しても、南部藩は重税をかけるだけであったため、追い詰められた農民が起こした「三閉伊の一揆」があったところだそうです。
たくさんの犠牲者を出しながらもよき指導者に恵まれ農民の生活が守られたということから、人々に信頼される指導者をこの地域から生み出したいという願いから、「カンパネルラ」という愛称を選んだというようなことが説明されていました。
駅舎に描かれたサクラの花びらの中に、いろんなメッセージが書かれていました。
メッセージ
被害を被った地元の人がこんなに力強い言葉を発することができることに驚きました。
ほかにも、全国から寄せられた素敵なメッセージがこの駅舎を彩っています。
ようやく電車がやってきました
北リアス線の電車
この電車が折り返して、「久慈」行きになります。
私は、テレビを見てないので、よく分かりませんが、朝の連ドラ「あまちゃん」に登場する鉄道ですから、ドラマがブレークするにつれ、観光客がたくさん訪れ、春の連休や夏休みは混雑したようです。
ですから、景色のよい駅やドラマで印象的な場面として出てきた駅では、少し停車して写真を撮らせるサービスも忘れません。
そのサービスでホームへ降りて撮った写真です。
普代だったか陸中野田だったか忘れましたが、線路は高いところを通っているので、遠くまで見渡せます。
この辺りまでくると、リアス式海岸もだいぶなめらかになり、海の広さを感じるようになります。
駅のホームから見た太平洋
約45分で、終点の「久慈」駅に到着です。
午後2時44分、宮古を出発して約5時間半、長ーい移動でした。
(続く)