石巻・南三陸・気仙沼を旅して その1

今日で一年も半分終わり。ずいぶんブログを書くのをさぼっていました。今月は、映画も3本、朗読劇も1本、本も10冊ほど読んだのですが、目が悪くなってパソコンに向かう根気がなくなってしまいました。いよいよ今日がその晦日となりましたので6月の記事を1にすべくブログに一つ上げることにしました。

 

今回も旅の記録です。先週末急に思いついた旅です。今年の1月に南三陸方面に行ってからあっという間に半年が経過しました。あの時石巻の追分温泉から震災で多くの犠牲者を出した旧大川小学校を訪ねようと思っていながら、公共交通機関がなくて交通のアクセスが悪いうえ、大寒の頃で

 「川っぷちは吹き曝しでいられたもんではないからもう少し温かくなってからまた出直していらっしゃい。」

 と温泉旅館のフロントの女性の助言を聞いて行かなかったのです。

 その時からの宿題でいつ行こうかと思っておりましたが、今回JR東日本の大人の休日倶楽部で東北4日間乗り放題15000円という切符があることがわかって、これを使っていくことを思いついたのです。

 

一日目は、新幹線で一関まで行って、そこから大船渡線に乗り気仙沼へ入りました。前回は、仙台から東北線を経由して小牛田➡柳津➡(BRT)南三陸のルートでしたので違うルートでと思った次第です。気仙沼へは、震災後の2012年と2013年に来ていますので、およそ5年ぶりです。

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 新しい駅舎になり、BRTの赤いバスも駅構内から発着します。古町から坂を下りて新町へそして懐かしいフェリー乗り場まで歩きました。フェリー乗り場のまわりは、5年経ってもまだ空き地が目立ちますが、海の目の前にモダンな2階建ての建物が二棟できたのが新しい変化でした。向かって左側にはラジオスタジオ、コミュニティホールが入り、右側にはレストランやカフェなどのお店が入っていました。2012年には、近くのプレハブの商店で買ったふかひれ饅を波止場に座って食べたことが思い出されました。

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 あとこの4月に目の前にある大島へ「つるかめ大橋」がかかって、フェリーは廃止され、今は土日だけ運行する遊覧船が停泊していました。

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 お昼は、「アンカーコーヒー」というカフェで金メカカレーを食べました。金のつぶという玄米にメカジキととろっとした玉ねぎが入ってスパイシーなカレーです。今夜のお宿の食事も魚尽くしだろうと思うとちょっと洋風なものを食べたかったのです。

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 アンカーコーヒーは、気仙沼発祥です。気仙沼にマザーポートという焙煎をしている基幹店があります。いい豆をブレンドして100gずつパックして売っています。この日のブレンドは、「リアス」という名のブレンドでブラジル、タンザニアウガンダの豆のブレンド。苦味があってすっきりとしたお味が気に入って帰りに買って帰りました。ドーナツも自家製で焼きドーナツです。これは、ちょっと甘すぎるかもしれません。

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ここから魚市場の方へ向かったら、ようやくお目当ての「つるかめ橋」が見えました。湾を挟んで街の中心からはかなり離れているのでバスを使うか、車でないといけない距離です。すぐそこに見えるのに近くて遠い大島です。大島で一番高い山は「亀山」というので、そのカメとおめでたいツルをかけて名前を付けたのではないかと思いますが、だれかに聞いたわけではないので確かなことはわかりません。

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気仙沼湾内です。震災時には、この湾にあった石油のタンクが津波で横倒しになり炎をあげてこの湾の中を転がった映像を思い浮かべられるかたもいらっしゃるのではないでしょうか。鎮火させるまで何日もかかったそうです。2013年に来た時に見た大船渡線気仙沼の次の「鹿折唐桑」駅の近くに大きな船が横たわっていたのも思い出されます。湾の一番奥から何キロも流され、引き波で戻された船でした。

 今は、基幹産業である水産業は元に戻りつつあるのでしょうが、街全体の復興はまだ数年はかかるような気がしました。

今日の気仙沼は、青い空が広がり穏やかでとても震災があったなどとは想像できないいい日和でした。

http://yporcini.hateblo.jp/entry/2012/06/30/001140

http://yporcini.hateblo.jp/entry/2013/09/22/084342

参考までに気仙沼の記事をです。

 続く

5月24日の違憲訴訟の会

 5月に入ってしばらく間があいた「TPP新聞」が手元に届きました。

 私は、食のこだわりからTPPの農業分野や水道のことには疑問がありました。自分が良ければ、今だけ良ければなら、安全安心なものを取り寄せればいいのでしょうが、社会全体、そして次の世代にも安全で安心なものをと考えると政治から目を背けることができませんでした。そのために「TPP交渉差し止め・違憲訴訟の会」の原告の一人になりました。

 特に地裁の公判がある時には、何回も傍聴に足を運びましたが、国からの具体性のある説明は聞くことがありませんでした。

 2015年5月から2018年10月までの3年半、TPPそのものと交渉プロセスの違憲性を問うてきましたが、最高裁判決で棄却となり終結されました。しかしながら控訴審判決で「種子法廃止」は、TPPを背景にしたものだという判示があったそうです。

 日本の主要な農作物の米、麦、大豆は、これまで「種子法」によって安定供給が担保され、維持されてきたのです。以前触れたことがありますが、その種子法を廃止することで、何を政府はしようとしているかと言えば、外資企業の参入、品種の減少、供給不安、さらには遺伝子組み換え作物の生産拡大です。

 

 マスコミは、このことがとても重大であるという信号を社会に送り続けることはなく、2017年通常国会でこの法案を通してしまいました。日本の食料の根幹にかかわることをかくも簡単に決めてしまう日本の国の危うさがどこまで行くのだろうかと不安になるばかりです。

 

 5月24日に「TPP交渉差し止め・違憲訴訟の会」の総会があるというので参加しました。そしてこの日は、TPP訴訟ではないけれども、新たにそれに続く「種子法廃止等に関する違憲確認訴訟」を東京地裁に提訴した日でもあります。

 

 提訴の中身は、80ページに及ぶもので、弁護団が前日深夜までかかって仕上げたということで、大変ご苦労されたことがうかがえました。

 今回の提訴の具体的な文面は「TPP新聞」に要約したものがのっていますが、詳細はインターネットのホームページを通じてアップされることになっております。その中のごく一部ですが、弁護団の方から解説されたものがあったので、下記に引用させてもらいました。今度の訴訟の組み立てがおよそわかっていただけるのではないでしょうか。

  弁護団 浅野正富氏からの解説2より引用

 1948年国連で採択された「世界人権宣言」の25条1項は、「すべての人は、衣食住・・・により自己及び家族の健康及び福祉に十分な生活水準を保持する権利・・・を有すると規定しており、この食に関する部分は「食料への権利」を定めたものと理解されています。

 

 さらに1966年の国連総会において国際人権のうち「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約」第11条では、「食料への権利」がより具体的に規定されました。

 

 食料への権利は、だれでもいつでもどこに住んでいても、人が生まれながらに持っている最も基本的な権利の一つで、人が心も体も健康で生きていくために必要な食料を自らの手で得られる権利です。

 

 農民が自由に種子を入手して農産物を栽培し、それを消費者が購入することを政府が制限したら、それは農民や消費者の食料への権利の侵害となります。

 

 日本国憲法第25条は、「健康で文化的な最低限度の生活」を保障していますが食に関する十分な生活水準が保持されなければ「健康で文化的な最低限度の生活」とは言えませんから、食料への権利は憲法25条によって保障されていると解釈することができます。

 

 したがって、種子法によって農民が廉価で優良な品種の種子を入手して農産物を栽培し、それを消費者が購入できた状態を、種子法の廃止によってできなくすれば、それは明らかな憲法違反です。

 

   

 総会には、あれっどこかで見た方が・・・と思ったら、川田龍平氏が参加されていました。

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 非加熱製剤でHIVを発症し、薬害エイズ訴訟を闘った方です。あの時代エイズを発症したと名前も顔も公表した人はいなかったので、マスコミでもずいぶん取り上げられました。現在は、立憲民主党参議院議員

 今回から連れ合いの「堤未果」さんとともにこの訴訟の原告になられたということで挨拶されました。

 

 怖~いこぼれ話

 

 最後に元農林大臣の山田氏からの挨拶の中で、国会議員ら28名が髪の毛を使って農薬の残留を調べたということを聞きました。

 

 遺伝子組み換え種子とセットで売っている除草剤グリホサート(商品名ラウンドアップ)をはじめ危険な農薬ネオコチノイドなどが残留していないかを調べる検査です。

 

 まだこの農薬がどのくらい摂取されると体に残留するのか、どこに一番顕著に出てくるのかということはわかりませんが、このうち23人に何らかの農薬が検出されたそうです。議員さんたちなので、そんなにひどい食べ物を食べているとも思えませんが、忙しい方たちなので外食は多いのではないかと思います。

 

 議員さんがこの検査をやったということはこの結果を踏まえ、これから国会の中でも取り上げられ、政治問題化されていくのではないかと期待されます。

 

 今や、100円ショップでも手軽に買える除草剤としてグリホサートの入った商品、その危険性を知らせないで日々売られ使用されているのが日本の現状です。

 アメリカでは、長年ランドアップを使用し続けガンを発症した農民がモンサントに対して裁判を起こし、勝訴したと伝えられています。モンサントの内部文書で、ランドアップがガンを誘発することがわかっていたことが表に出てきたらしいです。こういう訴訟が何件も出てきていることも知る必要があると思います。

 

 遺伝子組み換えの種子の危険性と農薬の危険性、その2つが複合されるといったいどんなことが出てくるのか、すべて今私たちが実験台です。

 

 あと怖いと思ったのが、早く小麦を枯らせて収穫したいという効率を求め、収穫期にランドアップのような薬を撒いているということです。収穫期に使われるこの農薬は特に危険だと思いませんか。

 

浦賀散策

 4月に2度下見をして計画を練った浦賀散策の本番が昨日でした。学生時代の女子?7人が担当を交代しながら半年に一度散策プラス食事会を開くようになってもう7年くらい経つでしょうか。

 今回は、私が当番でしたので「浦賀」を選びました。去年一人で浦賀へやってきた時に歴史に名を刻むわりに人があまり来ないところなので、歴史好きの友人たちには喜んでもらえるような気がしたのです。

 都内のあちこちから2時間くらいかけてくるので、あまり早くてもたいへんかなと思って10時半浦賀駅の改札口に集まることにしましたが、全員定刻前に到着です。

  コース

 浦賀駅➡造船所跡➡浦賀文化センター分館➡西叶神社➡常福寺➡干鰯問屋だった町家

 ➡渡し船➡東叶神社➡浦賀城跡➡バスで観音崎を経由して伊勢町➡「カネヨ食

 堂」➡馬堀海岸駅

 

 先週から天気予報は曇り、雨が降らないだけいいかと思っていたのですが、絶好の散歩日和。山の緑は鮮やか、海の色は青く輝いていました。

 浦賀造船所跡

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 造船所跡地にはイベントがある時だけしか中へ入ることはできないそうです。

 

 駅から浦賀の湾の右側を10分ほど歩くと浦賀コミュニティセンター分館(郷土資料館)」へ到着します。1階の事務所に声をかけ「歴史のまち・浦賀」などのコピー資料をもらいました。

 2階には奉行所など今はもう姿を見ることができない建物の模型などが展示されていて浦賀を歩く前にアウトラインを知るのに便利なところです。

西叶神社

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 文覚上人が源氏の再興を祈願してその願いが叶えられたことに起源をもつ神社です。

 見事な彫刻があらゆるところに施されています。

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 この力士像は、浦賀文化財として有名なものだそうです。これまで自分では見つけられなかったのですが、昨日は友人が見つけてくれました。このようなところに使われている力士像を見たのは初めてです。小さな作品ですが、あたかも彼が屋根を持ち上げているようでこの力士像が一番気に入りました。

 先週の初めにNHKのテレビ番組「鶴瓶の家族に乾杯」でゲストの松坂桃李さんが浦賀を歩いたのだそうです。前もってシュミレーションができていたという友人がいて、ここでお守りの勾玉の石を買い、東叶神社で勾玉を入れる袋を買うのだと張り切っていました。若い人は、恋の成就を祈るそうですが、彼女は、ぽっくり死ねますようにと祈願したと後から聞きました。そんなことを願うような年になったのだなあ・・としみじみしてしまいました。

 常福寺

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 この常福寺は、浦賀に着任した奉行も離任していく奉行も公式行事を行う奉行所御用寺だったそうです。この浦賀では格式のある寺だったということなのでしょう。庫裏の中に「築山泉水庭」があるというので、庭を見せてもらえるよう電話でお願いしておきました。

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 すぐ南側に借景とする愛宕山が迫っているせいか奥行きがない分縦を意識した木々の配置が見事だなと思いました。「サツキがまだ咲いていないので今の庭は華やかさがない。」と住職が言っておられましたが、左側の流れに紫と白のアヤメが咲いていましたし、これから初夏に向かって蓮やギボウシも花開くと彩りのあるお庭になるだろうと想像できました。突然行っても見せてくれないという特別感もあって友人たちも喜んでくれました。

 干鰯問屋だった建物

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 関西で綿花を栽培するようになり、肥料として干鰯を大量に扱う浦賀が栄えたといわれています。浦賀には最盛期には30軒くらいの干鰯問屋があり、全国の干鰯を独占するくらいの勢いだったといいます。

 

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 今は、まったくそんな商いをしているうちはありませんが、面影を残す家や蔵を見つけることができます。

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 対岸へ行くためには、歩くと30分弱かかるのではないかと思うのでこの渡し船を利用します。渡し船に乗りたいときは、押しボタンを押すと対岸にいても、たとえ一人でも船は迎えに来てくれます。ただし12時から13時の間は昼休みのため乗ることはできません。料金は以前は150円だったのですが、今年は200円になっていました。御座舟と言われるスタイルの船だそうです。

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 昔は、この地域の人の生活に欠くことがことができない船で船二艘に船頭さんも二人だったようですが、今は一人です。だんだん乗る人が少なくなり、昼間に乗るのはたいてい観光客という様子が見てとれます。

 この船は「浦賀海道」と名付けられ、横須賀市道2073号となっているそうです。海の中の道なんですね。

 私たちも渡し船に乗り、西浦賀から東浦賀へやってきました。

 東叶神社

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 船着場から南へ5分くらい歩くと東叶神社へ着きます。この写真は、4月に撮ったものです。こちらも西叶神社と同じような言い伝えがあるそうです。

 向かって左側に山へ登って行く階段があります。神社の裏山は、かつては房総半島の里見氏と対峙していた時の北条氏が築城した浦賀城の跡地です。200段を越える階段なので5人だけは頑張って上りましが、2人には途中で待っていてもらいました。私もここは初めてです。うっそうとした自然林に囲まれた頂上は、一人ではちょっと怖い感じがします。f:id:yporcini:20190517121057j:plain

 城跡には、かつては奥宮があったそうですが、火事で焼失。小さな祠だけがありました。

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 ここで、咸臨丸に乗って出港する前の勝海舟が下の井戸水で水垢離をして、この山の頂上で断食をしたといわれています。その碑が建っていました。

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 南側にベンチがあり海をながめられるようになったところがありました。木を払って展望台にしたのでしょう。右側の岩場の手間の緑に囲まれたところに小さな家のようなものが見えますが、燈明堂だと思われます。燈明堂は幕府の命令で作られ、その灯りは房総半島まで届いたといいます。今見えるものは、1988年に復元したものだそうです。

 お守り袋も無事手に入れ、予定より20分ほど早いバスに乗車して、観音崎へ向かいました。

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 観音崎は、ちょうどハマダイコンが花盛り、ツバメがすごいスピードで目の前を飛び交っていました。(4月の写真です)

 ここからさらに横須賀行きのバスに乗り、途中の伊勢町というバス停で下りました。

 「かねよ食堂」

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 バス道路から海の方へ下りていくと昆布やワカメなどを加工して売っているお店が並んでいます。その一番奥にこの「かねよ食堂」があります。

 予約ができないので、空いているといいなと思っていたのですが、大丈夫でした。天気が良く中より外の方が風があって涼しそうでしたので、砂浜にパラソルを立てた野外で食べました。

 目の前は海です。浦賀水道ですから、次から次へと船が行き交います。ちょうど自衛隊の艦船だと思われる船が航行中。久里浜と金谷を結ぶフェリーも通ります。

 海の中には、アマモがびっしり生えているのも見ましたし、波打ち際では潮干狩りもできるようで、このあたりはとっても豊かな海だと思いました。

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 ランチは、4種類あって私はタイカレー、他の6人はマグロと野菜のラタトゥイユ風のもの、それにお薦めのカルパッチョを二皿取って、みんなでシェアしました。ランチメニューには、カボチャのポタージュ、それにデザートのほうじ茶プリンが付きました。

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 この食堂のオーナーは、漁師さんなので、魚や海藻はほとんどは自前というもの。新鮮でおいしいです。

 下のカルパッチョは、4月に下見で来た時の物。ナマコの酢の物、タコとワカメ クロダイ、海草のアカモク、ソゲ(1㎏以下のヒラメのこと)、三崎のマグロ二種、真ん中がヒラメの白子、ふだんなかなか出会えないものもでてきました。

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 砂浜での食事は気持ちが解放されるのか、一滴も飲みはしないのに口も軽く、結構大きな声でおしゃべりもできて良かったなと思いました。

 自分自身体のあちこちに不調が出てきているので、あと何回こんなことができるかなあと思いながらの計画でしたが、とりあえず今回もみな無事で集まれたことに感謝したいと思いました。

 帰りは、浦賀に戻るのではなく馬堀海岸駅から電車に乗りました。

浅草・新吉原を訪ねて その2

 前回の続きです。

 始めに位置関係がよくわからないと思うので、ツアーの折資料としてつけてもらった浅草・新吉原の古地図の一部をお見せします。

 左側に浅草寺の境内、右側の田地の上にある四角く囲われたところが新吉原です。

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 新吉原の街の中のようすです。

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 少し様子がお分かりかと思います。

 新吉原は、人形町近くにあった旧吉原が火事にあったため、周りが田地に囲まれた山谷へ越してきてできました。いちいち新吉原と書くのも面倒なので文の中では吉原と書いています。

 それでは・・・・

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 紙洗い橋からほど近いところに、「春慶院」という寺があります。

 ここは、吉原の太夫の中でも有名な名跡となっている「高尾太夫」の二代目の墓があるところです。「高尾太夫」と名乗る太夫は11人いるといわれています。2代目の高尾太夫は、「万治高尾」と呼ばれている名芸妓の一人です。伊達騒動の発端となった伊達綱宗とのロマンスもあったので、「仙台高尾」とも呼ばれているようです。

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 上のお墓がその「高尾太夫」のものです。意匠をこらした笠石塔婆、右面に

 「寒風にもろくもくつる紅葉かな」

という遺詠が彫られています。

 伊達藩の内命で作られたというだけあってなかなか立派なお墓です。この太夫のように遊女の階段を上り詰めたような名芸妓はほんの一握り、ほとんどの遊女たちは、苦労の挙句投げ込み寺でその一生を終えたことから思うとこの墓の主は、運が良かったと言えるかもしれません。

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 日本堤の通りを越えるといよいよ吉原へ入ります。入ったところから撮ったのでわかりづらいですが、ガソリンスタンドの入口に建っている柳の木を通称「見返りやなぎ」と呼んでいます。吉原から帰る途中、ちょうど柳の木のあたりで振り返り、遊女との一夜に思いを馳せるということなのでしょう。

 現在は何も残っていませんが、この近くに江戸ではすごく有名な「八百善」という料亭があったそうです。吉原にやってくる上客は、「八百善」で美味しい料理を食べて頃合いを見て、登楼したそうです。

 八百善をめぐるお茶漬けの話があります。

 すぐに食べられると思って茶漬けを注文したが、「ちょっと時間を頂きますがよろしいでしょうか。」という話はあったが、一向に出てこない。何時間も待った挙句出てきた茶漬けは、とても美味しかったが、代金を聞いて驚いた。「一両二分」今でいうと7万から10万円だという。何でそんなバカ高い茶漬けになったのかというと、

 ・香の物に出たものは、春には珍しい大変貴重な瓜と茄子。

 ・お茶は、宇治の玉露

 ・米は、越後の一粒選り。

 ・お茶を入れる水は、玉川上水の取水口で早飛脚に頼んで取ってきたもの。

 というわけで、この値段になったと聞いた客は納得して支払ったそうである。

 この話は、八百善の料理にこだわった一例を挙げたものだと思いますが、将軍家や文化人など八百善の料理はたくさんの人々を楽しませたようです。

 今も八百善は?と疑問に思い調べたところ、何と鎌倉にあることがわかりました。

 江戸の粋を集めた料理と器、そのうち私も行ってみたいと余計なことに気をまわしてしまいました。

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 日本堤通りから吉原へ入りました。見てもわかるようにカーブした道になっています。往来する人から吉原があからさまに見えないように、また中にいる遊女たちが外の世界が見えないように、わざとS字カーブにしているそうです。

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カーブの先です。右の先に「大門」がちらっと見えます。

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 この「大門」跡の茶色い柱辺りで道はまっすぐになっています。見返り柳から大門までが五十間。大門から仲之町といわれる吉原のメイン通りです。桜の咲く季節には、この通りに一夜にして桜の木が並び、客を迎えたといいます。この道から左右に道が分かれています。

 この「大門」は、犯罪者の取り締まりと遊女逃亡を見張ることを任務としていたところです。写真はありませんが、大門の右側を入った左側にちょっとした石垣が残っていました。それが、「お歯黒どぶ」と言われる幅が3m位の堀の跡だと説明されました。外部からの侵入と遊女の逃亡を防ぐために二重三重のしくみができていたということです。

 今は、この仲之町通りを埋めているほとんどが性風俗関係のお店です。あまりにたくさんあるので、そんなに需要があるのかと驚きます。江戸時代は、男性が7割という人口比率だったそうですから、吉原が人を集めたというのもわかるような気がしますが、現代においてもまだ必要・・・・

 遊女には、格付けがありました。「新吉原細見によると、先ほどの高尾太夫お抱えの三浦屋四郎左衛門の店では、「高尾太夫」が一番上に格付けされ、次に助六で有名な「あげ巻」という名があります。「あげ巻」は「格子」という格付けとなっています。格が上の遊女は、花魁と呼ばれていました。「高尾」も「あげ巻」も花魁です。

 この時代は、「太夫」の揚げ代は、文銀二枚で二両、今でいう20万円くらいだったようですが、時代が後になると遊女の格付けも貨幣の価値も変わっていくので一概に言えませんが、一夜を共にするために20万円を出せる人というのはほんの一握りだったと思います。

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 「吉原神社」です。吉原の一番西側にあります。遊女たちがお参りできる稲荷や神社がいくつかあったようですが、今はここに合祀されているようです。昔も今も女性の願いを聞き届けてくれるというので、女性の信仰を集めているそうです。現代の女性の願いと違ってここへ立つとかつて遊女たちが願ったことが想像できるようで、胸が痛みました。

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 吉原神社からすぐの所にある「吉原弁天池跡」にある小さな池です。

 大正12年の関東大震災の折、吉原で火事が起こり、大門を閉めたために逃げられなくなった遊女たちが飛び込んだ池がここにあったそうです。約400名の遊女が池に折り重なるように飛び込み、おぼれて命を落としたといわれています。

 何で大門を開けられなかったのでしょうか、欲に目がくらんだ人たちにとっては、女性の命が軽く扱われたということでしょう。犠牲になったのは、東北の貧しい家の出の女性が多かったそうです。生きるも地獄と言われた吉原でとうとう生きて出られなかった若い女性の無念な気持ちを思わずにはいられません。

 

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「吉原弁天池跡」のとても優しげな弁天様です。たくさんの女性たちの魂の供養のためにここに建てられたそうです。ちょうど満開のさくらがやわらかく包んでいるような気がしました。

 

 午後2時、ちょっと遅いランチをこの日参加した女性と男性10人余りといっしょに食べ、3時過ぎ解散となりました。雑踏の中でも聞こえるように、この日は団体さんが使うようなイヤホーンを用意してくれていたので、離れていてもガイドさんの話がよく聞こえて快適なツアーとなりました。

 

 帰りに雷門の前にある観光案内所があるビルの屋上まで上って夕暮れの浅草を眺めました。私は浅草が俯瞰できるこんな場所があることも知らなかったのに、外人観光客が何人もいたのには驚きました。f:id:yporcini:20190403174340j:plain

 薄あかね色に染まる春の夕暮れの浅草は美しいと思いました。 

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 灯ともし頃の雷門。

 朝ここを出発してまたここへ戻ってきたというわけです。

 春の一日が終わりました。

 

浅草・新吉原を訪ねて その1

 これもまた、もう一月も前のことです。

  4月初め学生時代の友だちの知り合いで浅草に住んでいらっしゃる方が江戸時代に歴史に登場した下町を案内して下さるという機会があり参加してきました。

 東京に何十年も暮らしてきたのに、いわゆる山の手地区と多摩地区しか知らない私にとって下町はほとんど知らない土地です。同じ下町散歩シリーズは今回で2回目。去年は忠臣蔵の舞台となった本所・深川界隈、今年は浅草・吉原です。

 今まで浅草には行ったことがあるものの、吉原に行くのは初めてです。2年ほど前に高田郁さんの「みをつくし料理帖」を読んでから、登場人物の一人「野江」が女衒に騙されて大阪から吉原へ連れてこられ「あさひ太夫」として生きていたのが吉原です。吉原とは頭の中で想像はするものの本当の吉原とはどんなところだったのかとても興味がありました。

 朝10時、ちょうど桜も満開、しかもお天気にも恵まれて待ち合わせの雷門前交番には大勢の観光客があふれていて会えるかどうか不安でしたが、無事皆さんと会うことができ一安心。ここから浅草寺に向かう真ん中の仲見世を通らず、右の袖道を北へと上って行きました。

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 何十年も浅草へは来ていなかったので、ふと見上げた屋根の上の白波五人男や地口行燈も見たことがありません。海外から来た観光客のみならず私のようなお上りさんにとっても、ここへ来れば江戸の雰囲気を味わうことができることに驚きました。

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 浅草神社です。浅草寺に来てもそのお隣にある神社にはお参りしたことがなかったので、存在そのものが新鮮でした。神社を出て左に曲がるとその裏通りには寺らしき表札のある建物がずっと続いていました。古地図を見るとこの辺りは寺が本当に多かったのがわかります。

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 そこからは、馬道を経て猿若町に入って来ました。ここも吉原と同じく中心部から芝居小屋を移転させてできた町です。1丁目には中村座、薩摩座、2丁目には市村座結城座、3丁目には河原崎座があったそうです。太字の三座が猿若三座と呼ばれているそうです。今は、市村座跡という碑があるくらいですが、通りには○○小道具という看板が出ているので今でも芝居と縁がある街のようです。

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 だいぶ隅田川に近づいてきました。ここは、「待乳山聖天」読み方がわかりませんよね。「まつちやましょうでん」と読むそうです。すぐ近くに池波正太郎の生家があったそうで、彼のエッセイには大川とこの待乳山聖天が出てくるそうです。

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 左に折れるとすぐに山谷堀と呼ばれる堀跡に到着です。大川(隅田川)に流れ込む堀の手前にあった橋が「今戸橋」。

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 堀は、今ではすべて埋められて公園となっています。この山谷堀が吉原へ行くルートの一つで、お大臣は、ここをチョキ舟に乗って吉原へ繰り出したそうです。

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 この先、正法寺橋、山谷堀橋、そしてこの紙洗橋と橋がいくつも続きます。この紙洗橋の紙洗いですが、この辺りは浅草紙という厚手の雑紙の産地だったそうです。使用した紙やぼろ布などを原料にしたいわゆる再生紙なので、時には墨で書いた文字がうすく残っていたような紙もあったそうです。

 ここで「素見・ひやかし」という言葉の語源について。

 紙すきの材料をしばらく水にふやかしておかなければならないため、職人さんがその間ちょっと散歩をしてくるといって出かける。吉原を素見に行き、帰ってくるとちょうどいい具合に紙がふやける。登楼していては紙がふやけすぎる。そこで、吉原をちょっと見たりからかったりして楽しむことを「素見・ひやかし」と言ったのではないかという話。

 なるほど! 言葉にも感心しましたが、浅草が紙の産地だったとはこれも私には新しい発見でした。江戸時代は、今よりもずっと環境に優しい生活だったと聞きますが、こんなところにも表れていることを知りました。

 続きは後日

 

初めての大阪その2

翌日は、朝から太陽が顔を出しまずまずの晴天に恵まれました。

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 皆さんはもうご存知かもしれませんが、「あべのハルカス」という名前の高層ビルです。JRの「天王寺」駅とほぼ同じところに近鉄の「阿部野橋」駅があります。このビルの中に近鉄百貨店の本店も入っています。横浜の桜木町にあるランドマークよりも4m高く300mの日本一高いビルだそうです。

 展望台には上らず、駅前の天王寺公園を散策しました。

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 公園の両側にはカフェなどのお店が並んでいます。そこを過ぎて右側を見ると長屋門がありました。黒田藩のお屋敷の長屋門を移築してきたようです。長屋門をくぐると大阪市立美術館がありました。

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 ちょうどフェルメール展が開催されていました。フェルメールを彷彿とさせる紫のバンジーが階段を飾っています。

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 美術館と反対側は、あの通天閣が見えます。こういう景色を見ると、ここが大阪を見渡せる位置にあり、ここに陣を築いたことが頷ける気がしました。

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 美術館の奥に池がありました。向こう側に見える小高いところに古墳があったという説もあるようです。

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 まわりの桜の木を見てみるとまだ開花しているようすが見られませんでしたが、一枝に数個花を開かせているものがありました。花の色が白っぽいので、ソメイヨシノでなくオオシマザクラかもしれませんが、これだけ開けば大阪もこの日開花というニュースがあってもいいだろうと思いました。それでも横浜よりも数日遅いです。

 桜の開花というのは春の気温だけで計ることができないんですね。冬の寒さも関係しているし、複雑な自然の摂理があることが実感としてわかりました。

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 駅前の公園に戻ってきました。「てんしば」と呼ばれる公園にはおにぎりをほおばりながらよちよち歩く子どもたちの姿も見られとてものどかな空気に包まれていました。私も公園内にある産直で買ったサバずしを芝生に座って食べました。

 阿部野橋駅から近鉄に乗り、富田林というところまで行きます。もちろん初めての所なので、前日に時刻表を調べて約束の時間に間に合うように準備したのですが、何となく不安なものでずっと駅の名前を見ながら乗っていました。それでも最後ちらっと眠ってしまい、一駅戻るという失敗をしでかしました。10分待って上りの電車が来たのでほっとしました。

 

 

 富田林というのは、ずいぶん田舎だということしか聞いてなかったので、観光ができるとは思っていませんでしたが、この街にも見るべきものがあったのです。

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 駅から東の方へ行くと「寺内町」という町がありました。この一角だけ石畳と白壁の古い家屋や寺が並んでいるのです。

 17世紀中ごろから明治にかけての町屋が多く平成9年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されたそうです。関西ということもあり、私は全く知りませんでしたが、ゆっくり時間をかけてみて回りたいところでした。

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 「富田林寺内町について」から抜粋

 16世紀半ばごろ興正寺の門跡証秀上人がこの辺りの荒芝地を買い近くの4か村の庄屋株2人、計8人で興正寺別院の建立、畑屋敷町割りなどの建設を要請したのがはじまりとされています。

 上の写真が確かその興正寺の別院だったと思います。

 

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 南北6筋、東西七町の道路で整然と区画され下水路完備、周囲には竹藪のある土居をめぐらし、外部からの出入りは、4か所にかぎられていました。

 早くから自治的都市特権を得て、町政の運営には年寄り役となった8人があっていました。

 ここは、東高野街道と富田林街道が交わる交通の要所であり、収穫された米、綿、菜種などの農産物にも良質の水に恵まれ、南河内一の商業地として発展しました。

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 富田林の駅を降りると、左手の丘の方に白い塔が見えたので、「あれは何?」と聞いたところ、「PL教団の塔」だとのこと。

 この街のどこからもランドマークのように見える塔です。もちろん寺内町の街からも見えていました。PL教団のことはよく知らなくても、高校野球の「PL高校」の名前はよく知っているという私のような方は多いのではないでしょうか。

 法事の後先にちょこっと観光しただけなので中途半端ですが、とにかく知らないところへ前知識がなくて行くと、それはそれで面白いものだというのが今回の旅の感想です。

 

初めての大阪その1

 もうずいぶんと時間が経ってしまいましたが、3月25,26日と法事があったので珍しく大阪へ行って参りました。3年前の春、和歌山の熊野を歩いて以来の関西です。

 本当は小学生の頃神戸市に3年ばかり住んでいたので、大阪は初めてではないのですが、大人になってからは、手前の京都か奈良が旅の目的地だったために大阪の交通網がどうなっているのかを全く知りませんでした。

 新大阪までは新幹線が運んでくれますが、ここから先がわかりません。もっとも誰かに聞けばいいやくらいな気持ちでしたが、大阪へ下りると今度はまたまたホームがあちこちにあって乗り換えにはもたつきました。

 目的地は、天王寺環状線に乗れば行けるところまでは調べてありましたが、どちらを回れば近いのかもわからず適当に環状線に乗りました。それでも何とか天王寺へ到着できました。

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 大阪で初めて体験したのは、エスカレーターの立ち位置の違いです。関東では左側は混んで並んでいることが多いので、私は右側に並んで歩いて上ることが多い習慣があるので、いつもの習いで右側に乗ったところ、左はガラガラ誰も乗っていません。ここで初めて話に聞いていた通り、関西は本当に反対なんだと気づきました。

 次に、この上の写真です。JRだか翌日乗った近鉄だか忘れてしまいましたが、ホームの転落防止装置です。東京では、板状の塀のようなもので覆われていて、真ん中あたりに左右に分かれるドアが付いたものがホームに続いているのです。

 ところが、この大阪のホームにあるのは、ブルーのセンサーテープと7本のロープです。ブルーのセンサーを踏んでいるとロープは上に上がらない仕組みになっているようです。 体をぶつけて実験してみる勇気はありませんでしたが、こんな軟な感じのもので本当に大丈夫なのかなと思うような仕様です。

 東京では、都心の地下鉄も含め乗降客の多い駅には必ずといっていいほど設置されいる転落防止装置なので、関西と関東ではこんなところでも違いがあるんだと新鮮な気持ちで見させてもらいました。

 

 この日は曇っていて肌寒い天気でした。天王寺に宿を取っていたので、ホテルで荷物を預かってもらってから、せっかくなので四天王寺へ歩いて行ってみることにしました。後で知ったことですが、この辺りは大坂冬の陣、夏の陣が置かれた茶臼山があり大阪市内を見下ろす小高い場所となっていました。

 

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 西門から入るとすぐに見えるのが金堂と五重の塔です。(五重塔の背後に見えるグレーの建物は、「あべのハルカス」という高層ビル)

 塔の左に仁王門、そして五重塔、金堂、金堂の右に講堂と一直線上に並びその周りを回廊が囲む建築様式です。この様式を「四天王寺式伽藍」といい、最も古い伽藍配置様式だといわれています。

 京都や奈良のように観光客は来ていないかと思いきや、外国からのお客さんがずいぶんと訪れていました。度々火災にあったということですから仕方がないのでしょうが、今から1400年前に聖徳太子が建てたという由緒ある建造物なのになんだかこれだけ見ただけではぴかぴかで新しいものにしか見えないのはなんだか残念な気がしました。

 

 ところが、四天王寺の外側にありました。古びた建物が。

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 816年に創建された「六時堂」という建物です。現在のお堂は1623年に再建されたものだそうです。昼夜6回にわたり諸仏礼賛するお堂なので、「六時堂」と言うそうです。

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 これくらい色があせ古びた木に馴染んでいる方がなんだか気持ちが落ち着くから不思議です。四天王寺の勉強をしてなくてよくわからないのですが、四天王寺の伽藍の外側にもいろんなお堂が並んでいて結構広大な敷地を持った寺でした。f:id:yporcini:20190325155311j:plain

  南京ハゼの白い実が垂れさがっている向こうに何やら黒い鳥が停まっていました。遠くから見たら、黒いのでカラスかと思いましたが、カワウでした。「和労堂」というお堂のシビの上にとまって羽を広げてポーズを取っていました。寺ではカラスはよく止まっているもののカワウはあまり見かけないので、なんだかちょっと不思議な光景でした。

 次回へ続く。