浅草・新吉原を訪ねて その2

 前回の続きです。

 始めに位置関係がよくわからないと思うので、ツアーの折資料としてつけてもらった浅草・新吉原の古地図の一部をお見せします。

 左側に浅草寺の境内、右側の田地の上にある四角く囲われたところが新吉原です。

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 新吉原の街の中のようすです。

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 少し様子がお分かりかと思います。

 新吉原は、人形町近くにあった旧吉原が火事にあったため、周りが田地に囲まれた山谷へ越してきてできました。いちいち新吉原と書くのも面倒なので文の中では吉原と書いています。

 それでは・・・・

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 紙洗い橋からほど近いところに、「春慶院」という寺があります。

 ここは、吉原の太夫の中でも有名な名跡となっている「高尾太夫」の二代目の墓があるところです。「高尾太夫」と名乗る太夫は11人いるといわれています。2代目の高尾太夫は、「万治高尾」と呼ばれている名芸妓の一人です。伊達騒動の発端となった伊達綱宗とのロマンスもあったので、「仙台高尾」とも呼ばれているようです。

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 上のお墓がその「高尾太夫」のものです。意匠をこらした笠石塔婆、右面に

 「寒風にもろくもくつる紅葉かな」

という遺詠が彫られています。

 伊達藩の内命で作られたというだけあってなかなか立派なお墓です。この太夫のように遊女の階段を上り詰めたような名芸妓はほんの一握り、ほとんどの遊女たちは、苦労の挙句投げ込み寺でその一生を終えたことから思うとこの墓の主は、運が良かったと言えるかもしれません。

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 日本堤の通りを越えるといよいよ吉原へ入ります。入ったところから撮ったのでわかりづらいですが、ガソリンスタンドの入口に建っている柳の木を通称「見返りやなぎ」と呼んでいます。吉原から帰る途中、ちょうど柳の木のあたりで振り返り、遊女との一夜に思いを馳せるということなのでしょう。

 現在は何も残っていませんが、この近くに江戸ではすごく有名な「八百善」という料亭があったそうです。吉原にやってくる上客は、「八百善」で美味しい料理を食べて頃合いを見て、登楼したそうです。

 八百善をめぐるお茶漬けの話があります。

 すぐに食べられると思って茶漬けを注文したが、「ちょっと時間を頂きますがよろしいでしょうか。」という話はあったが、一向に出てこない。何時間も待った挙句出てきた茶漬けは、とても美味しかったが、代金を聞いて驚いた。「一両二分」今でいうと7万から10万円だという。何でそんなバカ高い茶漬けになったのかというと、

 ・香の物に出たものは、春には珍しい大変貴重な瓜と茄子。

 ・お茶は、宇治の玉露

 ・米は、越後の一粒選り。

 ・お茶を入れる水は、玉川上水の取水口で早飛脚に頼んで取ってきたもの。

 というわけで、この値段になったと聞いた客は納得して支払ったそうである。

 この話は、八百善の料理にこだわった一例を挙げたものだと思いますが、将軍家や文化人など八百善の料理はたくさんの人々を楽しませたようです。

 今も八百善は?と疑問に思い調べたところ、何と鎌倉にあることがわかりました。

 江戸の粋を集めた料理と器、そのうち私も行ってみたいと余計なことに気をまわしてしまいました。

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 日本堤通りから吉原へ入りました。見てもわかるようにカーブした道になっています。往来する人から吉原があからさまに見えないように、また中にいる遊女たちが外の世界が見えないように、わざとS字カーブにしているそうです。

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カーブの先です。右の先に「大門」がちらっと見えます。

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 この「大門」跡の茶色い柱辺りで道はまっすぐになっています。見返り柳から大門までが五十間。大門から仲之町といわれる吉原のメイン通りです。桜の咲く季節には、この通りに一夜にして桜の木が並び、客を迎えたといいます。この道から左右に道が分かれています。

 この「大門」は、犯罪者の取り締まりと遊女逃亡を見張ることを任務としていたところです。写真はありませんが、大門の右側を入った左側にちょっとした石垣が残っていました。それが、「お歯黒どぶ」と言われる幅が3m位の堀の跡だと説明されました。外部からの侵入と遊女の逃亡を防ぐために二重三重のしくみができていたということです。

 今は、この仲之町通りを埋めているほとんどが性風俗関係のお店です。あまりにたくさんあるので、そんなに需要があるのかと驚きます。江戸時代は、男性が7割という人口比率だったそうですから、吉原が人を集めたというのもわかるような気がしますが、現代においてもまだ必要・・・・

 遊女には、格付けがありました。「新吉原細見によると、先ほどの高尾太夫お抱えの三浦屋四郎左衛門の店では、「高尾太夫」が一番上に格付けされ、次に助六で有名な「あげ巻」という名があります。「あげ巻」は「格子」という格付けとなっています。格が上の遊女は、花魁と呼ばれていました。「高尾」も「あげ巻」も花魁です。

 この時代は、「太夫」の揚げ代は、文銀二枚で二両、今でいう20万円くらいだったようですが、時代が後になると遊女の格付けも貨幣の価値も変わっていくので一概に言えませんが、一夜を共にするために20万円を出せる人というのはほんの一握りだったと思います。

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 「吉原神社」です。吉原の一番西側にあります。遊女たちがお参りできる稲荷や神社がいくつかあったようですが、今はここに合祀されているようです。昔も今も女性の願いを聞き届けてくれるというので、女性の信仰を集めているそうです。現代の女性の願いと違ってここへ立つとかつて遊女たちが願ったことが想像できるようで、胸が痛みました。

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 吉原神社からすぐの所にある「吉原弁天池跡」にある小さな池です。

 大正12年の関東大震災の折、吉原で火事が起こり、大門を閉めたために逃げられなくなった遊女たちが飛び込んだ池がここにあったそうです。約400名の遊女が池に折り重なるように飛び込み、おぼれて命を落としたといわれています。

 何で大門を開けられなかったのでしょうか、欲に目がくらんだ人たちにとっては、女性の命が軽く扱われたということでしょう。犠牲になったのは、東北の貧しい家の出の女性が多かったそうです。生きるも地獄と言われた吉原でとうとう生きて出られなかった若い女性の無念な気持ちを思わずにはいられません。

 

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「吉原弁天池跡」のとても優しげな弁天様です。たくさんの女性たちの魂の供養のためにここに建てられたそうです。ちょうど満開のさくらがやわらかく包んでいるような気がしました。

 

 午後2時、ちょっと遅いランチをこの日参加した女性と男性10人余りといっしょに食べ、3時過ぎ解散となりました。雑踏の中でも聞こえるように、この日は団体さんが使うようなイヤホーンを用意してくれていたので、離れていてもガイドさんの話がよく聞こえて快適なツアーとなりました。

 

 帰りに雷門の前にある観光案内所があるビルの屋上まで上って夕暮れの浅草を眺めました。私は浅草が俯瞰できるこんな場所があることも知らなかったのに、外人観光客が何人もいたのには驚きました。f:id:yporcini:20190403174340j:plain

 薄あかね色に染まる春の夕暮れの浅草は美しいと思いました。 

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 灯ともし頃の雷門。

 朝ここを出発してまたここへ戻ってきたというわけです。

 春の一日が終わりました。

 

浅草・新吉原を訪ねて その1

 これもまた、もう一月も前のことです。

  4月初め学生時代の友だちの知り合いで浅草に住んでいらっしゃる方が江戸時代に歴史に登場した下町を案内して下さるという機会があり参加してきました。

 東京に何十年も暮らしてきたのに、いわゆる山の手地区と多摩地区しか知らない私にとって下町はほとんど知らない土地です。同じ下町散歩シリーズは今回で2回目。去年は忠臣蔵の舞台となった本所・深川界隈、今年は浅草・吉原です。

 今まで浅草には行ったことがあるものの、吉原に行くのは初めてです。2年ほど前に高田郁さんの「みをつくし料理帖」を読んでから、登場人物の一人「野江」が女衒に騙されて大阪から吉原へ連れてこられ「あさひ太夫」として生きていたのが吉原です。吉原とは頭の中で想像はするものの本当の吉原とはどんなところだったのかとても興味がありました。

 朝10時、ちょうど桜も満開、しかもお天気にも恵まれて待ち合わせの雷門前交番には大勢の観光客があふれていて会えるかどうか不安でしたが、無事皆さんと会うことができ一安心。ここから浅草寺に向かう真ん中の仲見世を通らず、右の袖道を北へと上って行きました。

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 何十年も浅草へは来ていなかったので、ふと見上げた屋根の上の白波五人男や地口行燈も見たことがありません。海外から来た観光客のみならず私のようなお上りさんにとっても、ここへ来れば江戸の雰囲気を味わうことができることに驚きました。

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 浅草神社です。浅草寺に来てもそのお隣にある神社にはお参りしたことがなかったので、存在そのものが新鮮でした。神社を出て左に曲がるとその裏通りには寺らしき表札のある建物がずっと続いていました。古地図を見るとこの辺りは寺が本当に多かったのがわかります。

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 そこからは、馬道を経て猿若町に入って来ました。ここも吉原と同じく中心部から芝居小屋を移転させてできた町です。1丁目には中村座、薩摩座、2丁目には市村座結城座、3丁目には河原崎座があったそうです。太字の三座が猿若三座と呼ばれているそうです。今は、市村座跡という碑があるくらいですが、通りには○○小道具という看板が出ているので今でも芝居と縁がある街のようです。

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 だいぶ隅田川に近づいてきました。ここは、「待乳山聖天」読み方がわかりませんよね。「まつちやましょうでん」と読むそうです。すぐ近くに池波正太郎の生家があったそうで、彼のエッセイには大川とこの待乳山聖天が出てくるそうです。

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 左に折れるとすぐに山谷堀と呼ばれる堀跡に到着です。大川(隅田川)に流れ込む堀の手前にあった橋が「今戸橋」。

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 堀は、今ではすべて埋められて公園となっています。この山谷堀が吉原へ行くルートの一つで、お大臣は、ここをチョキ舟に乗って吉原へ繰り出したそうです。

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 この先、正法寺橋、山谷堀橋、そしてこの紙洗橋と橋がいくつも続きます。この紙洗橋の紙洗いですが、この辺りは浅草紙という厚手の雑紙の産地だったそうです。使用した紙やぼろ布などを原料にしたいわゆる再生紙なので、時には墨で書いた文字がうすく残っていたような紙もあったそうです。

 ここで「素見・ひやかし」という言葉の語源について。

 紙すきの材料をしばらく水にふやかしておかなければならないため、職人さんがその間ちょっと散歩をしてくるといって出かける。吉原を素見に行き、帰ってくるとちょうどいい具合に紙がふやける。登楼していては紙がふやけすぎる。そこで、吉原をちょっと見たりからかったりして楽しむことを「素見・ひやかし」と言ったのではないかという話。

 なるほど! 言葉にも感心しましたが、浅草が紙の産地だったとはこれも私には新しい発見でした。江戸時代は、今よりもずっと環境に優しい生活だったと聞きますが、こんなところにも表れていることを知りました。

 続きは後日

 

初めての大阪その2

翌日は、朝から太陽が顔を出しまずまずの晴天に恵まれました。

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 皆さんはもうご存知かもしれませんが、「あべのハルカス」という名前の高層ビルです。JRの「天王寺」駅とほぼ同じところに近鉄の「阿部野橋」駅があります。このビルの中に近鉄百貨店の本店も入っています。横浜の桜木町にあるランドマークよりも4m高く300mの日本一高いビルだそうです。

 展望台には上らず、駅前の天王寺公園を散策しました。

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 公園の両側にはカフェなどのお店が並んでいます。そこを過ぎて右側を見ると長屋門がありました。黒田藩のお屋敷の長屋門を移築してきたようです。長屋門をくぐると大阪市立美術館がありました。

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 ちょうどフェルメール展が開催されていました。フェルメールを彷彿とさせる紫のバンジーが階段を飾っています。

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 美術館と反対側は、あの通天閣が見えます。こういう景色を見ると、ここが大阪を見渡せる位置にあり、ここに陣を築いたことが頷ける気がしました。

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 美術館の奥に池がありました。向こう側に見える小高いところに古墳があったという説もあるようです。

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 まわりの桜の木を見てみるとまだ開花しているようすが見られませんでしたが、一枝に数個花を開かせているものがありました。花の色が白っぽいので、ソメイヨシノでなくオオシマザクラかもしれませんが、これだけ開けば大阪もこの日開花というニュースがあってもいいだろうと思いました。それでも横浜よりも数日遅いです。

 桜の開花というのは春の気温だけで計ることができないんですね。冬の寒さも関係しているし、複雑な自然の摂理があることが実感としてわかりました。

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 駅前の公園に戻ってきました。「てんしば」と呼ばれる公園にはおにぎりをほおばりながらよちよち歩く子どもたちの姿も見られとてものどかな空気に包まれていました。私も公園内にある産直で買ったサバずしを芝生に座って食べました。

 阿部野橋駅から近鉄に乗り、富田林というところまで行きます。もちろん初めての所なので、前日に時刻表を調べて約束の時間に間に合うように準備したのですが、何となく不安なものでずっと駅の名前を見ながら乗っていました。それでも最後ちらっと眠ってしまい、一駅戻るという失敗をしでかしました。10分待って上りの電車が来たのでほっとしました。

 

 

 富田林というのは、ずいぶん田舎だということしか聞いてなかったので、観光ができるとは思っていませんでしたが、この街にも見るべきものがあったのです。

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 駅から東の方へ行くと「寺内町」という町がありました。この一角だけ石畳と白壁の古い家屋や寺が並んでいるのです。

 17世紀中ごろから明治にかけての町屋が多く平成9年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されたそうです。関西ということもあり、私は全く知りませんでしたが、ゆっくり時間をかけてみて回りたいところでした。

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 「富田林寺内町について」から抜粋

 16世紀半ばごろ興正寺の門跡証秀上人がこの辺りの荒芝地を買い近くの4か村の庄屋株2人、計8人で興正寺別院の建立、畑屋敷町割りなどの建設を要請したのがはじまりとされています。

 上の写真が確かその興正寺の別院だったと思います。

 

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 南北6筋、東西七町の道路で整然と区画され下水路完備、周囲には竹藪のある土居をめぐらし、外部からの出入りは、4か所にかぎられていました。

 早くから自治的都市特権を得て、町政の運営には年寄り役となった8人があっていました。

 ここは、東高野街道と富田林街道が交わる交通の要所であり、収穫された米、綿、菜種などの農産物にも良質の水に恵まれ、南河内一の商業地として発展しました。

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 富田林の駅を降りると、左手の丘の方に白い塔が見えたので、「あれは何?」と聞いたところ、「PL教団の塔」だとのこと。

 この街のどこからもランドマークのように見える塔です。もちろん寺内町の街からも見えていました。PL教団のことはよく知らなくても、高校野球の「PL高校」の名前はよく知っているという私のような方は多いのではないでしょうか。

 法事の後先にちょこっと観光しただけなので中途半端ですが、とにかく知らないところへ前知識がなくて行くと、それはそれで面白いものだというのが今回の旅の感想です。

 

初めての大阪その1

 もうずいぶんと時間が経ってしまいましたが、3月25,26日と法事があったので珍しく大阪へ行って参りました。3年前の春、和歌山の熊野を歩いて以来の関西です。

 本当は小学生の頃神戸市に3年ばかり住んでいたので、大阪は初めてではないのですが、大人になってからは、手前の京都か奈良が旅の目的地だったために大阪の交通網がどうなっているのかを全く知りませんでした。

 新大阪までは新幹線が運んでくれますが、ここから先がわかりません。もっとも誰かに聞けばいいやくらいな気持ちでしたが、大阪へ下りると今度はまたまたホームがあちこちにあって乗り換えにはもたつきました。

 目的地は、天王寺環状線に乗れば行けるところまでは調べてありましたが、どちらを回れば近いのかもわからず適当に環状線に乗りました。それでも何とか天王寺へ到着できました。

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 大阪で初めて体験したのは、エスカレーターの立ち位置の違いです。関東では左側は混んで並んでいることが多いので、私は右側に並んで歩いて上ることが多い習慣があるので、いつもの習いで右側に乗ったところ、左はガラガラ誰も乗っていません。ここで初めて話に聞いていた通り、関西は本当に反対なんだと気づきました。

 次に、この上の写真です。JRだか翌日乗った近鉄だか忘れてしまいましたが、ホームの転落防止装置です。東京では、板状の塀のようなもので覆われていて、真ん中あたりに左右に分かれるドアが付いたものがホームに続いているのです。

 ところが、この大阪のホームにあるのは、ブルーのセンサーテープと7本のロープです。ブルーのセンサーを踏んでいるとロープは上に上がらない仕組みになっているようです。 体をぶつけて実験してみる勇気はありませんでしたが、こんな軟な感じのもので本当に大丈夫なのかなと思うような仕様です。

 東京では、都心の地下鉄も含め乗降客の多い駅には必ずといっていいほど設置されいる転落防止装置なので、関西と関東ではこんなところでも違いがあるんだと新鮮な気持ちで見させてもらいました。

 

 この日は曇っていて肌寒い天気でした。天王寺に宿を取っていたので、ホテルで荷物を預かってもらってから、せっかくなので四天王寺へ歩いて行ってみることにしました。後で知ったことですが、この辺りは大坂冬の陣、夏の陣が置かれた茶臼山があり大阪市内を見下ろす小高い場所となっていました。

 

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 西門から入るとすぐに見えるのが金堂と五重の塔です。(五重塔の背後に見えるグレーの建物は、「あべのハルカス」という高層ビル)

 塔の左に仁王門、そして五重塔、金堂、金堂の右に講堂と一直線上に並びその周りを回廊が囲む建築様式です。この様式を「四天王寺式伽藍」といい、最も古い伽藍配置様式だといわれています。

 京都や奈良のように観光客は来ていないかと思いきや、外国からのお客さんがずいぶんと訪れていました。度々火災にあったということですから仕方がないのでしょうが、今から1400年前に聖徳太子が建てたという由緒ある建造物なのになんだかこれだけ見ただけではぴかぴかで新しいものにしか見えないのはなんだか残念な気がしました。

 

 ところが、四天王寺の外側にありました。古びた建物が。

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 816年に創建された「六時堂」という建物です。現在のお堂は1623年に再建されたものだそうです。昼夜6回にわたり諸仏礼賛するお堂なので、「六時堂」と言うそうです。

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 これくらい色があせ古びた木に馴染んでいる方がなんだか気持ちが落ち着くから不思議です。四天王寺の勉強をしてなくてよくわからないのですが、四天王寺の伽藍の外側にもいろんなお堂が並んでいて結構広大な敷地を持った寺でした。f:id:yporcini:20190325155311j:plain

  南京ハゼの白い実が垂れさがっている向こうに何やら黒い鳥が停まっていました。遠くから見たら、黒いのでカラスかと思いましたが、カワウでした。「和労堂」というお堂のシビの上にとまって羽を広げてポーズを取っていました。寺ではカラスはよく止まっているもののカワウはあまり見かけないので、なんだかちょっと不思議な光景でした。

 次回へ続く。

 

花が長かった今年のサクラ

 今年も桜の開花を今か今かと思いながら3月を迎えた。花見の宴にも縁がないのにこんなに待ち遠しく思うのはどうしてなのかと毎年不思議に思う。昔の冬はもっと寒かっただろうし、その冷たい冬に耐えて春を待ち望む気持ちは今の人よりも強いものがあっただろう。先祖からの遺伝子がなせる業なのかどうかはわからないが、脈々と続くその心の深いところにあるものが不思議でもあり、嬉しくもある。というわけで、毎日忙しく動き回っていながらも通りすがりのサクラを撮ったものをふりかえってみた。

 

 一番初めは、3月11日

 横浜国大の付属中学校の校門

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 「オオカンザクラ(大寒桜)」

 早い桜なのでヒヨドリも嬉しくて飛び交い、思いがけない桜に携帯で写真を撮る人が群がった。

 

 3月19日

 大岡川観音橋付近

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 ソメイヨシノ

 横浜の開花宣言は、22日だったので、だいぶつぼみは膨らんでいたが、開花には数日かかりそう。

 

 3月22日 

 大岡川観音橋付近 

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 都内からの帰り道で夜桜になってしまった。ソメイヨシノは開花といっていいくらいつぼみは開いていた。

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 さてその横に咲いていた桜は、次代のホープ「ジンダイアケボノ」ソメイヨシノより数日早く咲くとの説明通り五分咲きくらい。色もソメイヨシノよりピンクが濃い。ソメイヨシノは、老齢化してんぐ病にかかりやすいので、もう苗木を生産していないとのこと。あと何年かかるかわからないが、大岡川も植え替えが進んでいるのでジンダイアケボノが花見の主役の座を得る日も近いような気がする。
  

 3月27日

 大岡川観音橋から

 

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 この週は、寒かったり暖かかったり、春の天気は移ろいやすく、なかなか花が咲きそろわない。

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 手前に咲いていた赤いさくらは、「ヨコハマヒザクラ」。「兼六園熊谷」というヤマザクラと寒緋桜を交配してできた品種。横浜在住の方が作った桜なので、ヨコハマという名が付いたとか。花の固まりが大きく豪華な感じが特徴だ。

 

 3月30日

 大岡川ソメイヨシノ

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 いよいよこの日から川の両岸に出店が並び桜祭りも佳境に入るというのに、この日は肌寒く桜も満開とは言えず、そぞろ歩く人の気分も何となく上がらない。

 

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 一人はしゃいでいたのは、カワウくん。歩いている人が食べ物を投げ入れたのではないかと想像するのだが、ふだんは、顔を出したかと思うとすぐに潜って巧みに魚を取るくせに、この日は顔を上げた切りきょろきょろと川岸に目を向けてはおねだりするような仕草が見えた。

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 この桜、通称「ドコンジョウザクラ」。堤の中に根を張って毎年花を咲かせる。行き交う人の話では、今年テレビで話題になったそうで、急に人気者になった。それにしてもすごい生命力。あやかりたくなる気持ちもわかるような気がする。

 

 

 3月31日

 神奈川県近代文学館 霧笛橋から。

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 この日もあいにくの曇り空。ソメイヨシノに花を添えるベイブリッジ

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 因みに文学館では、「松本清張展」が開催されている。懇意にしている街の本屋さんからチケットを頂いたので行ってみた。

 

  4月13日

 大岡川観音橋付近

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 ハナイカダを期待していたのだが、まだイカダにはなり切れていない。散った桜もあれば、まだ枝先にいっぱい咲かせているのもある。昼間は気温が上がっても夜になると途端に冷える日が続いている。今週は気温が徐々に上がるというので大きなイカダができるのももう間もなくだろう。

 

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 川の中も緑の水草がびっしりと生えて春を迎えている。水草は鳥や魚を養い、鳥は海から上ってくる小魚を獲りにやってくる。ちょうどコサギアオサギが小さな魚(たぶんボラの幼魚)をねらっていた。干潮で苦労せずに魚が獲れる。アオサギは、ちょうどこの時2匹くちばしに挟んだ。上手にのど元に運べるか心配したが、うまく取りこめたようだ。私も運よくこの光景を写真に撮り込むことができた。

 私の振り返りでも約1か月。思わぬ桜の長持ちで商店街のお店もお客さんを呼ぶことができてまさにサクラさまさまの春となった。

セツブンソウの自生地を訪ねて

セツブンソウ

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 2年前には「頭位めまい症」という耳の病気で耳鼻科に通院、去年はリンパ球の腫瘍で手術入院、今年はひどいドライアイで眼科への通院、冬は私にとっては鬼門の季節です。

 ということもありパソコンにはあまり近づかないようにしていたためご無沙汰をしておりました。乾燥も少し収まり目薬の効果もあって何とかパソコンに向かう勇気も出てきました。老化との付き合い方を学ぶにはまだまだ時間がかかりそうです。

 

 3月1日、秩父のセツブンソウ自生地に行ってきました。といっても、この日カメラの充電をしておかなかったため、写真はありません。仕方がないので、2017年に近くの植物園で撮った写真を代わりに掲載しました。

 セツブンソウは、2年前に見ていたので知ってはいましたが、自生地とはどんなところなのかをぜひ見てみたいと思ったことと、埼玉県に住む友人と一緒にハイキングをしたいなと思ってのことでした。

 前もってアクセスを調べたり、天気予報を調べたり前準備にずいぶん時間がかかりました。

 当日は、うちから横浜経由で池袋を目指し、そこから西武池袋線で飯能まで行き、西武秩父線に乗り換えようやく西武秩父駅へ到着です。都合3時間半、ここで秩父鉄道経由で来た友人と待ち合わせました。

 この日は曇りのち晴れの予報だったのですが、朝の横浜は小雨が降っていて気分はどよーんと盛り下がりましたが、北へ行けば天気は良くなると信じて行ったので、秩父駅では雲の間から陽の光が漏れていたのでほっとしました。

 この日一番心に残ったのは、セツブンソウではなく駅前から正面に見える「武甲山」の姿でした。奥多摩などからも遠く武甲山を眺めたことがありますが、こんなに間近で見たのは初めてかもしれません。

 武甲山石灰岩の採掘で削られている事実は知識としてはありましたが、こんなに痛々しいものだと自分の目で確かめたのは初めてでした。

 12月3日に行われる秩父夜祭は有名なお祭りですが、その起源は、秩父神社の女神と武甲山男神が途中のお旅所で年に一度の逢瀬の日だったと聞きました。武甲山の伏流水が農業にとってとても大事だったので、収穫後の感謝のしるしに湧水を返す神事だともいいます。

 その武甲山は、石灰岩質の山であるため、特に北斜面は大正期からは大規模に採掘され、1900年には1336mあった頂上が削り取られ、今では頂上がずれて1304mになってしまったそうです。石灰岩質の土壌が育む貴重な植物は消滅しているという話も聞きます。

 近頃ちょくちょく港区方面にでかけるのですが東京の臨海部は開発がめざましく建設中のビルが多いのに驚かされます。武甲山を見てからというもの、山を削り取った石灰岩を原料にしたコンクリートが使われているのかと思うとなんだかやりきれない思いに捕らわれます。

 

 駅は、ユネスコ無形文化遺産に登録されたということもあり、温泉やフードコート、お土産物やさんなどが並んだこぎれいな建物になっており、びっくりしました。

 

 その駅前から10時20分発の町内バスに乗って「薬師の湯」という日帰り温泉まで約1時間、さら別の町内バスに乗り換え10分で最寄りの「上堂」という停留所へ到着です。着いたのは、11時半です。

 セツブンソウの自生地は、道のすぐわきにあり光がよく入る雑木林といった場所で、枯れ葉の間から10センチ程の丈で3センチ足らずの花をつけています。花に見えるのはガクで黄色の・・部分がめしべで紫色の・・部分が雄しべにあたります。地味に見える花ですがよく見るとなかなか味わいのある花です。雑木林を埋める白い淡雪のように広がって咲いています。野草の開花は一斉で、この日は見ごろでした。天気が悪くまた日程を調整したりしていたら、今年はダメだったかもしれません。

 

 その自生地から15分ほど歩いて戻ると、道の反対側に位置する「あずまや山」の登り口があるというので、ちょうど良さそうな山道でしたのでハイキングすることにしました。頂上部分は、クサリ場だというので、今回は友人も手首を骨折して力が入らないと言っていたので、中腹のフクジュソウロウバイの花があるところまで行って昼食としました。

フクジュソウ

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 この写真も2年前のもの。実際はまわりに立派に葉が茂り、花が見ごろを過ぎていました。橙色のフクジュソウが珍しかったです。

 薬師堂まで下り神社をお参りするとそこは目のお薬師さんなのか、めとめを書いた絵馬には、目がよくなるようにとの願いが書かれたものがたくさんありました。友人は、緑内障で 治すことはできなくてできるだけ維持させるしかないとのこと、一緒にお祈りさせてもらいました。

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 「薬師の湯」の売店で、購入した「ヤマブシダケ」です。これは菌床栽培品ですが、βーグルカンが豊富に含まれ、アがリスクだとかサルノコシカケとかと同じ成分をもった優れものだとわかりました。うま味成分もあり出汁なしでも汁物に入れるといいようです。

 帰りは、駅でおしゃべりをしてから帰ったので朝と違って連絡が悪く、6時半に出てうちへ着いたのは、11時。さすがに疲れました。埼玉の西の方は遠いです。

 

南三陸への旅5(追分温泉・女川)

追分温泉

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 2011年ごろネットを見ていて見つけてしまったお宿です。いざ行こうと思った頃、東日本大震災が起こり、ここは被災した人たちの避難先になっていました。2012年に気仙沼へ被災の状況を確かめに行くときにどうやら宿として再開したという情報を見て泊まったことがあるのです。

 たぶん1年くらいは、被災して住む家がない人を泊めたり、自衛隊をはじめ復旧作業にあたるの人たちのお風呂にもなっていたのではないかと思います。石巻は水道も出なかったので、ここの温泉は本当に皆さんに重宝されたと聞きました。

 前回2012年9月は泊まる人も多かったようで、長い廊下を歩いた2階のちょっと暗めの部屋でしたが、今回は玄関のすぐ上の部屋でトイレも洗面所も付いた贅沢な部屋にとめてもらえました。ここは、部屋は予約順、料金はお料理のランクで決められていて6700円から1000円刻みで設定されています。前々日から魚をたくさん食べることになると思って一番下の6700円で予約しました。冬は暖房費を200円追加それに消費税と入湯税ですから7300円くらいだったと思います。

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上から1、クジラのお刺身、白子、北寄貝?

   2、クジラの竜田揚げと野菜の天ぷら

   3、ナマコの酢の物

   4、ワカメのしゃぶしゃぶ鍋

   5、ほたて、牡蠣のホイル蒸

 あとは、普通の刺身、茶わんむし、蕗味噌、自分で炊く釜飯。一番下のランクでもこれだけのものが出てきます。朝ごはんには大きな秋刀魚の塩焼きが出たのでびっくりでした。まだサンマが取れるのかなと思ったのです。ここの特徴は、前回もそうでしたから必ずクジラが出るというところでしょうか。山の中ですが、車を使えば魚市場へも割合近いので海の幸でもてなしてくれます。

 前回来た時にフロントにいらした女性は被災してここへ来たのが縁で働かせてもらっているということでした。その方に石巻の被災のことをずいぶんと聞かせてもらったなかで、山を下りたところにある大川小学校のことが忘れられませんでした。北上川のすぐそばに建っている児童数100名規模の小さな学校です。その建物および避難した堤防に津波が押し寄せ、保護者が迎えに来た27名の子どもをのぞく76名の児童と11名の先生のうちほとんどが亡くなったという痛ましい災害です。

 翌日は山を下りてその学校にお参りをしたいという希望を持っていたので、フロントの方(その頃の方とは違いますが)に相談しました。まず歩くと2時間以上かかるだろうとのこと、川の堤防付近には風をよける建物や暖を取る店などが1軒もないので、今回はやめてもう少し温かくなってからいらっしゃいと勧められました。あまりの寒さに勧められたようにしようと思っていましたが、翌日の朝、女川へお客さんを迎えに行く予定が入っているのでそのマイクロバスに乗って近くを通ってもらえば見ることができるし女川まで行けば、電車に乗って石巻へも出られるので便利だと気遣ってくださいました。

 大川小学校の近くを通る住民バスは、月水金の三日だけ、しかも朝、昼、夕の3本のみ、しかも直接JRの駅へ行くバスに乗るには、またバスに乗り換えなければならないというたいへんな僻地なんです。市の中心部へ買い物に行くにも病院へ行くにも一日がかりです。

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 翌朝マイクロバスの時刻に合わせ、9時前に宿を出発しました。バスの運転手さんは、女川へ行くまでの1時間20分ほどの間、車窓から見える様々な建物や復興住宅のことなどを話してくれました。特に私が大川小学校のことを気にしていることを知っていたので、まだまだ復興途中の道の脇に車を停めて学校のことを聞かせてくれました。

 「裏山に逃げればよかったといわれるけれども、山はかなり勾配が急で1年生など小さい子どもは上れないよ。それにチリ地震津波の時は、堤防を超えるようなことがなかったし、この地域の津波の歴史上今回のようなものを誰も経験してこなかったので、責められない。」とご自分の意見をおっしゃっていました。

 写真を撮っているような時間はなく、上の写真は北上川の河口に近いところで窓から1枚だけ撮った写真です。北上川は、東北の大河と言われるだけあって川幅は広く水量も多いです。いくら言われても実際の津波の恐ろしさは自分ではまだまだ実感できません。

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 女川の駅前で下ろしてもらいました。女川も津波で港の前から駅の方向は軒並み流されました。復興8年目に入ろうとしている女川駅には温泉が入った立派な駅舎が建てられていました。屋根は、カモメの翼をデザインしたものだということです。

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 駅前から海へ向かってなだらかな傾斜に煉瓦を配した美しい商店街が作られています。月曜日ですので、旅行客も少なく大丈夫かなと思いましたが、温かくなったらきっとお客さんもたくさん見えるだろうしそこそこやっていけるのかなと思います。

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 海の向こうに漁港がありました。ちょうど船が一隻入っています。カモメが群がっているのが見えたので、きっとたくさん魚の水揚げがあったのでしょう。

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 ちょっと大きくしたものです。

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 港までは、ぐるっと回って行かねばなりませんので、商店街の下の桟橋を歩いてみました。フェンスが張ってある右側はまだがれきが残っているような空き地があり、そこが何になるのかがまだわかりません。

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 今日の主人公は、カモメです。漁船のまわりにセグロカモメがいたので、たぶんその幼鳥だと思います。飛んできたカモメに話しかけてます。兄弟かな、友だちかな・・・

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 カモメの目はちょっときつい感じがするけれど、このカモメの目は本当にあどけなさを残しています。羽が茶色なので幼鳥だとは思いましたが、カモメの幼鳥をこんなにたくさん見たのは初めてです。

 帰りに商店街の中の鮮魚店で、お土産の牡蠣を注文して送ってもらいました。送った相手には、やっぱり関東で買うのと違って甘くてすごく美味しかったとの感想をもらったので皆さんも牡蠣を買うなら女川の牡蠣もいいですよ。私の復興への協力はこれくらいしかできません。

 旅をするといろんな方と話ができます。海のビジターセンターの若い女性とも好きな植物の話で仲良くなれたし、民宿に泊まっていた「みちのくトレイル」の事務局の若い男性ともトレイルの話をできたし、マイクロバスの運転手さんにも石巻の現状を聞けたし、民宿のおかみさんも最後の日に玄関で長い立ち話ができました。

 特におかみさんの話は心に残っています。被災の話を順番を追って話すというのは苦手だけれど、こうやって聞いてくれれば話せると言って、悩みを打ち明けてくれました。地元の人とだとうちのように民宿の建物が残ったうちとすべてが流されてしまったうちがあり、心の内を話せないけれども、旅の人だとざっくばらんに話ができていいと言っておられました。

 被災者に寄り添うというのは本当に難しいです。津波は、建物や港や道路や鉄道も流してしまったけれど、実は今まで共同体として存在した地元の隣人たちの人間関係まで壊しているのかもしれないと感じました。物体は、修復することはできても、人の心の修復には時間がかかりずっと難しいかもしれないとこの度の旅行で思い知らされたことでした。

 それにしても、地元へ行って直に人の話を聞くことで、自分の考えの至らないところにも気づくし、人情に触れるここともできるし旅はやめられません。特に交通が不便で苦労の多い旅は、得るものも大きいです。

 これで今回の旅の記録は終わりです。