深川江戸資料館
清澄通りを挟んで庭園とは反対側を入っていくと、深川江戸資料館があります。
江戸時代(天保年間)の深川佐賀町の街並みが実物大で再現されています。
中は、薄暗いので写真はうまく撮れてませんが、アップしてみました。
まず、1階から階段を下りていくと、どこからか猫の鳴き声が聞こえてきます。
いました、いました、屋根の上に。
もちろん、人形です。
時々にゃーんと鳴くようにプログラムされているのでしょうが、
いかにも江戸の町の雰囲気を耳からも感じさせてくれます。
これは、一体何でしょうか。
天秤棒ですから、これを背負って辻々を売り歩くものでしょうが、
この布は、手拭いなのだろうかと疑問に思いました。
ちょうど、説明や質問に答えてくれるボランティアの方がいらしたので
聞いてみました。
結論から言うと、これは着ふるした布の再利用だということでした。
汚れが目立たない部分を切り取った布を売り歩く商売だったのです。
江戸の頃は、着物の布は’大変高価で庶民はなかなか買うことができなかったので、
こういう古い端切れを使って着物を作っていたのではないかと思われます。
今でいうパッチワークですね。
江戸の庶民がいかに使えるものを大切にしていたかが分かり、
今に生かせる展示だと思いました。
空が茜色に染まってくると、まもなく夕闇です。
ライトの調整で一日のようすを表わしているのも面白いです。
緒牙舟(チョキ舟)が停まっています。
川の前に船宿があります。
緒牙船は、船宿の前に置いてある荷物や人を運ぶ
水上タクシーの役割をしていたようです。
舟を待っている人が使っていたものが、
そのうちに飲食をしたり、宴会をしたりする
小料理屋のようになっていったようです。
火の見櫓が立っている広場に、天ぷらの屋台と
蕎麦屋がありました。
広場は、火事の時、火が次々と燃え移るのを防ぐために作られていたそうです。
こうした広場には、食べ物を商う店が集まり、にぎわっていたようです。
外でしか天ぷら屋さんは開業できなかったようです。
江戸の町は、火事が頻繁に起こっていたので、
うちの中で天ぷらをすることは許されてなかった と聞きました。
天ぷら屋さんは、ここに屋台を置いて通ってきていたようですが、
蕎麦屋さんの方は、これを担いで来ていたようです。
中に丼やゆでるための湯を沸かす七輪のようなものまで入っているので、
ここまで持ってくるだけで重労働だっただろうことが想像されます。
地図を起こして再現した佐賀町の長屋のうちの一軒です。
入口の戸に、「於し津」と書いてあります。
ここの於し津さんは、バチの絵で表わしているように、三味線を教えています。
でも、それだけではなく、読み書き、手習い、お裁縫など
女の子が身につけなくてはいけないことを教えて
生計を営んでいたということがわかりました。
長屋の部屋は、4畳半か6畳に一畳半の台所がついた今でいう1kです。
台所が狭いのは、普通ご飯とみそ汁くらいしか作らず、
おかずは、出来合いのものを買ってくるような生活だったからだそうです。
暗くてわからないと思いますが、
戸の上に開閉自由になっている桟があります、
これが換気扇替わりとなっていたそうです。
その桟の上に「久松るす」という紙が貼ってあります。
何だと思います?
久松といういのは、お染久松の久松のことですが、
これは、はやり風邪(今のインフルエンザ)封じのお札だったようです。
流行り風邪を「お染風邪」と呼んでいたようで、
大好きな久松がいなければ、お染は入ってこないと考えたようです。
江戸のユーモアを感じさせます。
トイレと井戸とゴミ捨て場は、長屋の一角にまとめて配置され、
共同で使ったのは、よく時代劇に出てくる通りでした。
トイレのものは、肥料として売れたので、
その代金は大家さんのものになったそうです。
まだまだ興味深い話がありますが、
写真もないので、これぐらいにしておきます。
ここには、20年くらい前にも一度来たことがありますが、
江戸の庶民の生活が分かって、とっても楽しいです。
入館料は、芭蕉記念館と中川船番所と3か所の共通券で500円です。
大震災の時に、石の灯篭が壊れ、まだそのままになっているので
柵の中に入ることはできませんでした。
この辺では珍しいみかんの木が植えられていました。
文左衛門さんの故郷のみかんでしょうか。
古い洋館でなかなか重厚な建物でした。
中を見てみると、ぐるりと回るように登っていく様式の階段、
それに、ステンドグラスの窓ガラスやランプも素敵です。
こういう古い建物はなぜか心が落ち着くので
私は、はやりのぴかぴかの図書館よりもずっと好きです。
採荼庵(さいとあん)
図書館を出た後、コーヒーを飲みながらひとしきりおしゃべりをして
外へ出ると、もう辺りは暗くなってきていました。
「採荼庵(さいとあん)」がありました。
ここは、芭蕉の深川での生活を支えていた
杉山杉風(すぎやま さんぷう) の屋敷があったところです。
芭蕉は、旅支度を整え、これから出立するかのように縁側へ腰かけています。
芭蕉庵をたたみ、2月にここへ移り、3月の27日に多くの人に見送られ、
仙台堀川から舟で隅田川を遡っていったのだそうです。
まさしく、ここから奥の細道の旅が始まったのです。
夜のとばりが下りてきましたし、私たちも帰途につくことにしましょう。
帰りは、門前仲町の地下鉄の駅へ出ました。
これで、下町散策は終わりです。