まだ茅ヶ崎は2回目ですし、知らないところがたくさんあるので、
探検心がもこもこと湧いてきて帰りは、歩いて帰りました。
今回は、往きのバスの中から見た「高砂(たかすな)緑地」へ寄りました。
駅から5分くらいなのに、辺り一帯が松に覆われていて、
一体ここには何があるのだろうと興味深々だったのです。
まず、入口でここの説明を読んでみました。
ここは、そもそもの始まりは、団十郎を慕ってやってきた新派の川上音二郎が
別荘を建てたところだったそうです。
その後、その別荘を含めた一帯を実業家の 原 安二郎 が手に入れて
別荘を建てたそうです。
その後、茅ヶ崎市が購入し現在に至っています。
ここは、「松籟庵」の庭への入口です。
実業家の岩田孝八のお母さんが亡くなった時に
市に一億円を寄付されたそうで、それを使って市が作った庭と茶室です。
庭は、池を配した回遊式庭園になっています。
もみじの緑が鮮やかです。
緑の中に半夏生の白い葉や、ホタルブクロの薄いピンクが彩りを添えていました。
池の一番奥には、小さな滝があり、その手前にはちょっと大き目の手水鉢に
水が湧き出ていました。
池の向こうに見えるのが茶室と書院。
この日もお茶の会が催されていたようで、着物姿の女性の後姿がみえていました。
松林の間の径を辿っていくと、小高い山の上に美術館がありました。
太陽光をうまく取り入れる設計で
小さいながらも気持ちのよい空間になっていました。
建物の屋根はまるで風を孕んで、鳥が羽を広げているように見えます。
この日は、茅ヶ崎の市民の作品の展示が行われていました。
美術館の左の方へ下りていくと、
原氏が建てたというヨーロッパ風の別荘の建物の一部が残されていました。
左は、塀で、右は、噴水、階段、門柱のようです。
さらに下りていくと松林の中に
石碑がいくつか建てられているのを見つけました。
一つ目は、八木重吉という詩人のものです。
静かでありながら、心深くしみ込む詩を書く人だという印象です。
八木重吉については、八王子に住んでいる時に、
隣の町田市に記念館があったので見学をしたことがありましたが、
何で茅ヶ崎に詩碑が立っているのだろうと思い、調べてみました。
彼が結核にかかった時に、茅ヶ崎の南胡院という結核療養所に入院していたため
ゆかりの地ということで建てられたということがわかりました。
彼は、療養の甲斐なく、29才という若さで亡くなっています。
らいてうというと、この石碑の言葉が有名ですが、
女性の地位の向上を願ってたくさんの本を出し、
消費者運動もやってきた人です。
らいてうと茅ヶ崎のかかわりも調べてみました。
彼女は、茅ヶ崎で5才年下の画家と恋に落ちました。
やはり相手の奥村博史氏が結核にかかり、
八木重吉と同じ療養所に入院した期間があったそうです。
らいてうは、茅ヶ崎を愛のふるさとと偲んでいたということで
ここに石碑が建てられたようです。
今でこそ、結核は治癒が可能な病気になりましたが、
八木重吉の二人の子どもも結核で亡くなったという話も聞きましたし、
このころはまだ不治の病だったことがわかりました。
茅ヶ崎は、別荘地として選ばれることが多い土地柄であったこと、
また結核の療養のための土地でもあったことを
この二人の生きた軌跡を調べる中で知りました。
最後に、女性の地位向上のために運動してきたらいてうは、
晩年平和運動家として忙しい日々を送っていたそうです。
「憲法を守り抜く覚悟」というメッセージを残して
1971年に84才でこの世を去ったと知りました。
折しも明日は、参議院議員選挙、
憲法を守り抜くためにどれだけの人々が力を尽くしてきたかを思い
祈るような気持ちで一票を投じたいと思います。