この旅の最後です。
今年3月、気仙沼市は東日本大震災遺構・伝承館を開設しました。気仙沼は津波とその後の大規模火災で死者1152人(関連死も含め)、行方不明者214人とたくさんの人の命を失いました。震災から八年経ちました。人々の記憶から大震災のことが消え去られないよう、そして今回得た教訓を伝えていくことを目的にこの遺構と伝承館が建てられたようです。
場所は、前回のハマナスの大谷海岸の次のBRTの駅「陸前階上」から歩いて20分ほど。タクシーだと5分くらいのところです。私は地理がわからなくて回り道をしたために往きは40分くらい歩くことになってしまいました。駅からは徐々に下り、海へと近づいていきます。この「陸前階上」の駅もホームと跨線橋がそのまま残っています。
漁港からほど近いところにある4階建ての建物が遺構となった「旧向洋高校」です。津波のことを考えたらこんなところに学校を建てるのかと思うような場所です。水産高校ということもあり便利なこともあったのだと思います。
(現在は、「陸前階上駅」よりさらに西側で国道の近くに新しい校舎が建っています。)
見えているのは北側にある校舎なので外から見た限りではひどい被害は見当たりません。工事中のようなところをグーンと迂回して右側へ行くと伝承館の入口がありました。
エントランスでチケットを購入(600円)。見学は、はじめに映像シアターで震災時、直後の映像を見ます。気分が悪くなった方は途中で退場することも可能だとアナウンスがありましたが、被害にあわれた方の中には実際の津波のことを思い出し私のように客観的には見られない方もおいでなのだと気づかされました。
その後、旧南校舎、屋上の見学と進みます。
今回は、ガイドさんがついてお話が聞けるということも知らずに行ったのですが、ちょうど20名くらいの団体さんがお願いしてあったのか、ガイドさんがいらしたのでそ方のお話を聞きながら一緒に回ることができたのでとてもラッキーでした。
1階の教室です。右側が南なので窓は壊れ、耐震装置の赤い鉄骨だけが見えています。
3階の教室です。何で3階まで車が入ってくるのかと不思議な気がします。
これも3階の教室にあったウレタンの固まりのようなものです。ほかの教室にもこんなものがあって何だろうと思ったら、学校の南側には冷凍庫が設置された水産加工関連の建物があったようで、そこからたくさん流れ着いたものだそうです。
これは、4階の西側の角のベランダ部分の壁です。南側から冷蔵庫のようなものが直撃して崩れたそうです。
同じ場所を外から見たところです。崩れた部分が落ちてこないよう補強されています。
4階の教室です。スチール製の整理棚です。4階は、そんなに高くまでは津波が入らなかったようですが、この棚の錆が示している通り、下から40cmくらいまで浸かったことがわかります。
屋上から下を見降ろすと、天井のない体育館がありました。もう8年の月日が経っているわけですっかり野原となってしまっています。
東側の海のそばに白い塔が建っていました。塔の高さは津波の高さを表わしているのだそうです。と言われても想像力が貧困で、いつも実感がわかないのです。
高校の南側に見えた避難所の高台です。名前を忘れてしまいましたが、この地域の第一次避難所のようです。
ガイドさんから聞いた大震災時の津波の避難の具体的なお話
高校は、試験が終わり、部活動などで残っていた生徒は170名くらい。揺れが大きかったので津波が来ることを予想し、教員を重要書類の避難とまだ学校にいた生徒の避難担当と役割分担してことにあたったそうだ。
当初の情報では6,7mくらいの津波だということだったので、島のような第一次避難所へ避難。続いてもう少し高い津波(8m)という情報が入り、さらに学校から1㎞西側にあった地福寺というお寺に避難した。(下の写真がその寺)
ところが、津波の高さは10mという情報が入る。そこで生徒たちをさらに1㎞西側にある階上駅に誘導することにした。(一番初めにあった写真の震災前の駅。)そこでもさらに住民の間でここでも危ないからとのことで、さらに「階上中学校」へと非難した。
向洋高校では、海の近くに建っているということで、普段から津波に対する危機意識があったという。教員の役割分担や最新の情報を基に避難の場所を的確に判断したことが誰一人命を落とすものがなかったということにつながったのではないだろうか。
最後にガイドの方は、津波の避難は遠くへ逃げても波と平行に移動するのでは意味がない。より高いところへ避難することが大事なこと。と繰り返しお話されたのが深く心に染みた。というのも石巻の「大川小学校」での記憶が離れないからだ。
石巻と気仙沼での遺構を訪ねたことで、遺構を残しておくことの重要性、その教訓を拡げていくことの大切さを知ることができました。人間は忘れる生き物です。被災地の記憶をどうやって繋いでその教訓を生かしていくかは今を生きる私たちに課せられた重要な課題ではないでしょうか。
ボランティアガイドを務められている方々への感謝を胸にこの旅を終えました。