最後の晩餐(夕食)
この日は、メインは今まで刺身になって出てきた魚のあらやキノコををホットプレートで焼いたもの。宿主の食べ物をおろそかにしない心を感じる。
珍しかったのは、ゲンゲの吸い物。身がことのほか柔らかく口に入れると溶けるようだ。調べてみると富山だとか日本海側でほかの魚を獲る網にかかっているような魚で深海魚だそうだ。目的外の魚なので、安く手に入ったりするので 漢字で「下の下」と充てられたり、珍しいというので「幻魚」と表わされている。
プルプルするので、やはりコラーゲンがたっぷりなのだろう。
「霧多布里(きりたっぷり)」の前景 (後ろ側が海)
翌朝もやっぱり曇っていた。
民宿の建物の前で宿泊者の記念撮影をすることにしているので、「嫌でなかったら看板の横に立ってほしい」と言われ、口角を上げて撮ってもらった。
私が泊まっていた部屋は玄関の真上の部屋。入口のドアに「くちばし美人」という名札が付いていた。何のことかはじめはピーンとこなかったが、アイヌの言葉で「エトピリカ」のことだと後で気が付いた。エトが嘴、ピリカは、美人とか美しいという意味のことばだ。
体は黒く、大きなくちばしと脚は赤くて、頭の横に黄色い飾り羽が付いている。歌舞伎役者のように華やかな雰囲気を感じる鳥だ。
エトピリカは、霧多布には繁殖にやってこなくなってしまったが、かつては来ていたということがわかっているので、デコイを岩に置いたり、海上に浮かべたりして呼び寄せようと頑張っているそうである。
ただ単に部屋の名前に過ぎないけれどもエトピリカの部屋に泊まったんだと思うとちょっと嬉しかった。
朝六時、町内バスの停留所がある新川十字路まで宿主が車で送ってくれた。
これで最後だなと思っていた時、「宿主がタンチョウが来ているよ。」と教えてくれた。離れたところにいたので、ぼうっとしか見えないが、目いっぱい大きくして写真を撮った。
朝一番のバスだから通勤客が乗っているのかと思ったが、私以外学生さんが一人乗っていただけだった。このバスに初めて乗った時にも浜中町のことをいろいろ教えてくれたドライバーさんの運転だった。このバスは湿原センターの前の道をさらに北の方へ行ったところにある駅へ向かう。「浜中駅」より一つ釧路寄りの「茶内」(チャナイ)という駅だ。
今回も運転手さんはこの駅の近くのことを教えてくれた。ここには横浜に本社がある「高梨乳業」の工場があり、浜中町の酪農家の生乳を集め生産しているということを教えてくれた。大変質のいい牛乳なので、ハーゲンダッツのアイスクリームにも使われているという。タカナシ乳業がこの町に入ってきたことで、雇用も増え町としては助かっているのだそうだ。
茶内駅近辺は、郵便局やスーパーの建物も見えたし、浜中町では霧多布の街の次に人が多そうなところである。
駅舎の入口にルパンのパネルがあった。霧多布辺りではあちこちでルパン三世のパネルやポスターを見ることができるそうだが、私は人がいないところばかりを歩いていたのでほとんど出会うことはなかった。
作者のモンキーパンチさんの出身地が浜中町なので、ルパンは町おこしに一役買っているようだ。展示施設もあるし、タクシーやトラックのラッピング、お店の壁などに ルパンやその仲間たちが描かれていて ファンには嬉しい街でもあるようだ。
海の近くの街へ行くと 海抜○○mというプレートがかかっているところがあるが、この町にも要所要所で見かけた。茶内駅は、約44ⅿとなっている。
三陸へ行くと津波のことが常に頭に浮かぶが、道東の海岸もチリ地震津波、釧路沖地震津波、東日本大震災の津波など何回も津波の被害を受けているそうだ。霧多布の街にあった浜中町の役場も海抜42ⅿの高台に移転して、今年やっと開庁したそうだ。
津波の被害のことも浜中町へ来てみて分かったことの一つだ。行ってみてわかることはたくさんある。
最後に地名の由来を紹介。
「霧多布」(キリタップ)というのは、アイヌの言葉の「キタプ」(茅を刈るところという意味)が「キイタップ」となり、漢字の「霧多布」が充てられたようだ。
だれが付けたのかわからないが、当て字も霧の多いこの地域をよく表している。
「浜中町」の浜中は、アイヌの言葉で 「ota-noske」オタノシケ(砂浜 中央 という意味)
そこから はまのなか 「浜中」になったようだ。
花咲線がやってきた。たった三日間だったけれども、いろんな学びができ充実した旅になったこと、お世話になった皆さんへの感謝の気持ちをいっぱい詰め込んで浜中に別れを告げた。
8月中に終わらせようと思いつつ9月に入ってしまいました。今朝は北の窓からひんやりした風が入り身震いした途端、北海道を思い出しました。
これで浜中の旅のブログはおしまい。長々引き延ばした記録を読んでくださった方々、ありがとうございました。