イスラマバードへ着いて、午後2時過ぎ、遅い昼食を現地法人サイヤーの経営する「インテルメッツォ」で食べた。まだまだお腹は不調。ちょいちょいつまみながらもっぱら生演奏を聴いていた。
弦楽器と太鼓だけだが、とてもリズミカルな楽しい演奏。
インテルメッツォにて
昼食後、ホテルへチェックイン。
元気な人たちは、夕方からファイサルモスク(内部に15000人、外に85000人が一度にお祈りできる世界最大級を誇る)を見学し、次にイスラマバードが一望できるマルガラの丘へ。
参加者の中に、丘の上でムカデに刺されて病院で診てもらうというアクシデントもあったようだが、私は、薬をもらって寝ていたので、すべて翌朝聞いて驚いた。
刺された時すぐにガイドさんが毒を指で出してくれたので大事に至らなかったという。いろんなことがあるものだ。
パキスタン最後の日
この日は、世界遺産のタキシラ遺跡を見学する。
私は、薬で何とか行動できるようにはなっていたが、夕方までホテルで休んでいる人も3人いた。イスラマバードは、昼間気温が30度近くに上がる。遺跡は日陰がないので、傘を持参し日傘にした。
ガンダーラ美術の中心がもう少し西のペシャワール、スワート渓谷であるのに、そこからは離れたタキシラはその頃最大の都市であったそうだ。
紀元前4世紀のアレキサンダー大王が東征した時には、すでに都市国家が形成されており、その後マウリア朝、バクトリア時代を通して栄え、クシャン王朝時代には一代仏教センターとして栄えた後、5世紀に侵入したエフタル族により、都市は破壊されたそうである。
タキシラの博物館に行く途中、GTロード跡を見学.。GTは、グランド・トランク・ロードの略されたもの。
16世紀、一時的にムガール王朝にとって代わったアフガン王朝の王様によってカブールからアグラまで作られた道として、マルガラ峠に残っている石畳の道である。
GTロード
タキシラの遺跡を全部見ようと思うとたいへんな時間が必要。その日は、その中で、博物館とシルカップとジョウリアンの3つを見学。
タキシラの博物館
中は、写真が撮れない。ここにはギリシャ彫刻のような仏像やストゥーバのレリーフ、日用品、アクセサリーなど遺跡から発掘されたものが展示されている。
真っ赤なブーゲンビリヤが庭を彩っていた。
シルカップ
紀元前2世紀、バクトリア(アフガニスタン北部)のギリシャ人が侵入し、建設した都市。都市計画に従って碁盤の目のように作られた。
紀元前4世紀からクシャン朝までの7層の都市跡が発掘されているが、現在地上に出ている層は、上から2番目のバクトリア時代のものだそうである。
石垣の積み石で時代が分かる。
メインストリートの両側に、仏教寺院、ジャイナ教寺院、商店等の家屋、日時計等の跡が残る。
ストゥーバの台座にはペルシャ風、ギリシャ風の屋根の特徴を表わしたレリーフが残っている。
ジョウリアン
ジョウリアンは、山道の階段を登ること、246段、タキシラの街が一望できる丘の上にある。
ジョウリアンは、その頃は、イギリスのオックスフォードやケンブリッジのように世界中の僧侶がここタキシラのジョウリアンへ学びに来たそうである。
ジョウリアンは、僧侶の暮らした僧院区、主ストゥーバ(仏塔)と奉献ストゥーバ、祠堂からなる塔院区からなる。
これは、僧侶が住んでいた部屋である。石垣がしっかりと組まれて残っている。
四角に開いたところが窓、明かりを取るところだ。部屋の中に灯火を置く小さな棚もあった。この部屋でひたすら祈り、勉学に励んだのだ。上には屋根が付いていたそうである。
僧は、一部屋に二人ずつ、2階建てで28部屋あったそうなので、56名がここで学んでいたことになる。
僧院区には、この部屋のほかに、沐浴場、集会所、倉庫、台所、食堂と生活に必要な部屋がすべて残っている。石臼や、スプーンいれの穴、テーブルなどの跡も見られた。
遺跡の見学が終わって、デコトラを作る工房に寄ったり、地元のスーパーマーケットに寄ったりした。その後最後の食事を昨日のインテルメッツォで食べた。
今日の料理は、ペシャワール料理。
カブーリ・パラオ(ご飯)にチキン/ビーフ/マトン/魚 のシシカバブやテイッカ(骨なしBBC)やリブ、彩り野菜がドサッとのったもの。すごいおもてなし料理だった。
最後のご馳走も見るだけに終わってしまったが、前菜の心づくしのえびのてんぷらうどんは食べてしまった。美味しかったあ・・・・
22:50発のPK852便で帰途に着いた。
旅を振り返って
パキスタン旅行で大変だったのは、やっぱりお腹を壊すことが多いことだろう。飲む水は気をつけていたが、野菜を洗う水まで気をつけなくてはいけなかったのかもしれない。ほかの国へ行った時は、生野菜は食べないように気をつけてきたが、今回は特にそこまで言われてなかったので食べていた人が多かった。
次に、移動中、お花摘み(露天トイレ)が多かったので、トイレセットなるものを携行して歩かなければならなかった。そういうのがだめな人は、この国の旅行は難しい。
ホテルでもトイレットペーパーは原則として流せないので、ゴミ箱へ。ゴミ箱がないところでは、ビニール袋を持参して使用した紙は入れて帰らねばならない。
3番目は、飛行機へ搭乗するときの荷物検査、ボディーチェックが念入りに行われることだ。帰りは、エックス線に通したあと、ほとんど全員がスーツケースを開けさせられて、旅行社がくれた大まかな地図まで取られた人もいた。二回行われる。
と、いろんなことがあったパキスタン旅行だが、日本に帰って電車の車窓から見える緑がとてもまぶしかったこと、そして食べ物の看板があふれていることに衝撃をうけた。
日本人もかつてはフンザの人たちと同じように自分で食べるものを作り、着る物を作り、生活に必要な最低限のものは自分の手で作っていたわけで、今更戻れないかもしれないが、そこに人間の生活の原点があると思った。
生活を見直し、時間がかかっても、できるところは自分の手を使って暮らしたいと思う毎日である。
旅行の話はこれでおしまい。