続きです。
国道18号線の「海野宿入口」という信号から山の方へ行くのかと思っていましたが、逆でした。千曲川の方向へ曲がってすぐの所にこの宿場がありました。
下流上田市方向の流れです。ススキの穂がきらきらと光って見えました。
千曲川の流れを見ているうちに、中学3年生の頃、担任の国語の先生にたくさんの詩を教えてもらったことがふつふつと蘇ってきました。中でも藤村の「初恋」「小諸なる古城のほとり」は初めて教えてもらった詩です。一生懸命暗記したのを覚えています。 教科書に出てくるものを丁寧に教えようというよりは、たぶん国語にもっと興味を持たせようというお考えがあったのだと思います。詩やリズムのある文章を教えてもらい、いい刺激となりました。その先生は、アラビア語を勉強していらしてその後まもなくイランへ留学してしまいました。
年寄りは、思い出話が多くなって困ります。もう先が短くて過ぎ去った年月の方が長いので仕方のないことかと許してもらえればと思います。
南側から入るとすぐの所に「白鳥神社」があります。海野氏や真田氏にゆかりのある神社です。
「エンジュ」の大木です。神社にある樹としては珍しいと思いました。
こちらは御神木の「ケヤキ」です。樹齢は700年だそうです。
東側から見た街並み。
西側から見た街並み。
用水が引かれ、東西650mが保存対象になっているようです。
ご覧の通り、この日は平日でしたから、駐車場もガラガラでしたが通りを行き交う人の影がほとんど見当たりません。神社からすぐの右手に資料館がありましたが、お客さんが少ないので受付にいた女性はとても丁寧に案内してくれました。
聞かせてもらった話を元にこの宿のことを簡単に紹介します。
江戸時代三代将軍家光は、佐渡の金を江戸に運ばせるためにこの北国街道(ほっこくかいどう)の整備をさせたそうです。上田宿と隣の田中宿の間にできたのがこの海野宿だとか。上田宿の方が大きいので、金沢から参勤交代でこの街道を使った前田藩のお殿様は上田に泊まられ、格下の大名がこの海野宿や田中宿の本陣を使ったとか。何せ2500人もの行列だったそうですから参勤交代にぶつかれば、長野の善光寺参りの旅人も泊まるところを見つけるのはたいへんだったような気がします。
隣の田中宿が川の氾濫で被害を受け、海野宿が栄えたそうです。
江戸時代は、この街は旅籠屋で栄え、明治期に入ってからは、もともと盛んだった養蚕を生業とし財をなした立派な家が多く残っていると聞きました。蚕の病気が出にくい気候も相まって蚕の改良育種が盛んだったそうです。
資料館になっている家も旅籠屋造りの家ですが、のちに養蚕をやるようになったため中庭や裏手に蚕室だとか農機具を収納する納屋などが残っていて見学ができるようになっていました。
資料館になっている隣に大きな袖ウダツのある家がありました。受付の方に「お金持ちだったのでしょうね。」と口ずさむと「今でもお金持ちですよ。」との返事。こんなりっぱな袖ウダツを私はみたことがありません。
よく見ると、瓦には鯱も上がっています。
資料館は、典型的な旅籠屋造りの建物です。窓には、桟がありますが。これは「海野格子」といわれる独特の格子です。
別の家のものですが、特に2階部分の格子は、出格子といって1階部分より飛び出しています。こうすると、旅人が旅支度をするときに役にたったと書いたものがあったので庇の役割をもっていたのかなと思いました。
格子は、長いものが2本、次に短いものが2本の繰り返しになっているのがお分かりになるでしょうか。これが「海野格子」の特徴です。
もう一つは、2階の屋根の上に付いている小屋根です。囲炉裏を焚く茅葺屋根にはもっと小さなのが付いているのは見たことがありますが、大きな小屋根の付いたうちは見たことがありませんでした。 養蚕に業が変わった時に、蚕を寒さから守るために火を焚くようになりました。そのため煙を逃がす小屋根をつけたのです。これもこの海野宿の変遷を知るいい材料です。
上の写真は本陣跡です。本陣らしきものは残っていません。
通りを挟んだところにある玩具館へ寄ってみました。ここには、個人で集めた全国の民芸玩具が寄贈、展示されています。そこでもお客さんがいないので、受付の女性とおはなしさせてもらいました。ちょっと2階部分が低いので、やはり蚕室だったのかと聞いたところ、ここは遊郭だったと教えてもらいました。
向かいが本陣ですからその隣には脇本陣もあっただろうし、昔の宿場に遊郭があったのは当然といえば当然なのでしょうが・・・・
ポストがあるところが玩具館。両隣3軒だけ屋根が低いのです。(まわりも一緒に撮った写真がないのでわかりにくいですね。)中2階の高さしかありません。これも聞いてわかったことですが、南側の屋根が低いと通りの反対側にも太陽の光が注ぎ、積もった雪も解けるというわけで、本陣の前だけ屋根の高さをわざわざ低くしたそうです。忖度したのか命令でそうなったのかはわかりません。いつの時代も権力者の影響力はすごいものがあると思いました。
宿場ですから、当然馬もやってきます。荷物や人を運び、疲れた馬のために塩を入れておいた入れ物です。ここで次の馬を調達して先へ進むのです。
この宿場には現在60件ほどの建物が残っているそうですが、半分の家は住んでいるけれども後の半分は人に貸して食堂やカフェ、お土産屋さんになっているところがあるため、仕事が終わると帰ってしまうので夕方になると暗い通りになってとても寂しいと聞きました。
資料館のすぐ近くに句碑がありました。(夕過ぎのうすのコダマの寒さかな)と読むようです。通りが暗くなると人通りも絶えた海野宿の情景が浮かび上がってきました。
おまけ
この日、上田の農産物直売所に寄って求めた「サクラシメジ」です。うちへ帰ってから撮った写真ですので、色が褪せていますがピンク色をしたしめじです。香りがだいぶ飛んでしまいましたが、帰った翌朝料理しました。
一つは、けんちん汁です。ごぼう、ニンジン、こんにゃく、油揚げ、豆腐、しいたけ、それにサクラシメジ、長ネギ、すだちを垂らした醤油味の汁ものです。
もう一つは、炒め物。なすといっしょにオリーブオイルで炒め、塩で味付け、すだちを垂らしました。
きのこは、鮮度が大事です。残念ながらだいぶ香りが飛んでいましたが、味シメジといいますからまあまあというところでしょう。
上田市では、小中学校の給食にマツタケが出る日があるようです。マツタケご飯とマツタケのお吸い物が献立になるそうです。直売所でもたくさん売っていましたが、やはり5000円には手が出ず、450円のしめじになりました。
おしまいです。