川端康成展ー虹をつむぐ人

 11月は予定があまりなかったはずなのに、結構忙しい。

 17日に映画を1本見た後に神奈川文学館へ回った。日本大通りの両側の街路樹のイチ

ョウもすっかり色づき秋の深まりを感じた。

 

 

 途中中華街で久しぶりに山東の水餃子を食べた。

 餃子の皮がもっちりとしているので、10個食べればお腹がいっぱいになる。たれが独

特でココナッツだれが癖になる。時々思い出したように食べたくなるのだ。これも以前

は770円だったと思ったが、今回は880円でここも値上げかとがっかりした。

 お腹もいっぱいになったところで、元町通りに出て、外国人墓地の脇道を上り、港の

見える丘公園に入った。

 港の見える丘公園を抜けた奥に神奈川近代文学館がある。今開かれているのは、川端

康成展。没後50年にあたるので特別展示である。

 私は、文学少女だったわけでもなく、今も文学よりは社会のあれこれを書いた本を読

むことの方が多いので、ここへ足を運ぶのはまれである。今回は、懇意にしている近く

の本屋さんから招待券を特別に頂いたので無駄にしてはいけないと思ってやってきた。

 

 川端康成の作品は、「伊豆の踊子」と「雪国」くらいしか読んだことがない。ノーベ

文学賞をもらったことは知っているが、だからと言って何かを読んだわけでもない。

 

 展示を見ていると、生い立ちの紹介がある。彼も子どもの頃は不遇で、両親が

幼いころに亡くなった後、祖父母に引き取られたが、13歳の頃その祖父も亡くなったと

のことである。

 

 若いころ、女性を見るとじっと凝視する癖があったというのもどこか生い立ちが関係

しているのかもしれない。

 

 虹をつむぐ人 という副題がついているわけがわかった。読んでなくて語れないがい

ろんなモチーフの小説が書かれているということらしい。絵、陶芸、書などいろんな方

面に精通していたということもあるのだろう。多彩な色を持つ小説家だということらし

い。(荻野アンナさんの解説による)

 

 私が川端康成を身近に感じたのは、覚園寺の薬師堂にある「鞘阿弥陀」を通してであ

る。

 薬師堂の真ん中に座っているお薬師さんでも脇に並ぶ日光、月光菩薩でもなく、周り

を取り囲む十二神将でもなく、向かって右側にそっとおいでになる通称「鞘阿弥陀」。

(胎内に仏像が納められているので、「鞘阿弥陀」と呼ばれている。)

 

 彼が晩年鎌倉に住んでいたので始終覚園寺を訪ねることができたと言えばそれまでだ

が、川端康成は、とりわけこの「鞘阿弥陀」を大切に思っていたらしい。

 この「鞘阿弥陀」は、とても優しいお顔をしている。女性的な柔和なお顔の仏様なの

で、今回の女性を凝視するということと関係があるのかもしれないなと想像した。

 仏像の良し悪しはわからないが、私も好きな仏様のおひとりである。

 

 この阿弥陀様は、近くにあった「理智光寺」の本尊であったのに、廃寺となったため

覚園寺に移され今も薬師堂でほかの仏様と一緒の時を過ごしている。

 

 

 この展示のイベントで12日に朗読会があった。竹下景子さんの朗読だというので、申

し込んだがもうすでにいっぱいでキャンセル待ちだと言われていたのだが、2日前にな

って、電話が入り参加できることになった。

 

 「掌の小説」という本当に短い短編が集められた小説集の中から10篇ほどが取り上げ

られていた。読んだこともないけれど、とりあえず彼女の朗読の声を実際に聴くことが

できて幸せな時間だった。この小説集は、小説家が若いころ、よく詩を書いたりする代

わりではなかったかと説明されていた。

 時間が許せば、一度その短編も読んでみたいと思う。

 夕暮れが迫って来て薄暗くなってきたが、つわぶきの黄色が鮮やかだった。