気仙沼から先、大船渡までは震災以降、電車の替わりにBRT(高速バス輸送システム)というJRの代行の赤いバスが駅と駅を結んでいます。
船があった場所が「鹿折唐桑」(ししおりからくわ)の駅のすぐ前でしたので、そこから次の目的地「陸前高田」までBRTに乗って行きました。
ずっと海岸線の道なのかと思っていましたが、長いトンネルをいくつも通り抜け、山から下りると広大な空き地があります。それが、今の「陸前高田」です。
約30分で到着しました。
陸前高田市は、この辺りでは人口も2万人近い大きな街でした。
ちょっと大きな地図を広げるとわかりますが、湾が南に大きく開き、津波が侵入するような地形になっています。
この震災では、死者行方不明者が1700人を越え、この辺りでは一番被害が大きかった街です。
街の奥の方から海の方を眺めると、何にもない空き地のあちこちにクレーンやブルドーザーなどの重機がたくさん入り大きな音をたて、ダンプカーも途切れることなく走っています。
この街のこれからの青写真が見えない私には、2年半経ってもこんな状態ですから、一体何年経ったら、人が生活している空気を感じられる街の姿になるのだろうかと気が遠くなるような思いになりました。
海岸にあった松原の松が根こそぎ流された中、一本だけが残ったという「奇跡の一本松」が真ん中右手に見えています。
その「一本松」です。
青い空にすっくと立つ松の木は、何もない空き地ばかりの土地では、遠くからでも見え、まさに街のランドマークです。
全国から集められた寄付金で、もう腐ってしまった松の木をかたどってそっくりに作られたという作り物なのですが、復興のシンボルとしての役割を担っているようです。
18日の日は水曜日でしたが、私たちの他にも次々と訪れる観光客と思しき人が見られました。
まだ、目の前の建物は、崩れたままです。
このあたりは、地盤沈下(80cm近く)が起きたせいで、水に浸かって池のようになっているところが多いです。
この低くなっている部分に山を削り取った土を運び入れ、更地にして公園にするという工事をしているのだと警備をしている人から聞きました。
右手後にある山がだいぶ削られている様子が見えましたが、その土を運ぶダンプカーの通行が激しくなるのが問題となり、山の土を巨大なベルトコンベアーで運べるようにする工事も合わせて行われていました。
この写真の右側に立っている背の高い建造物がベルトコンベアーの支柱だそうです。
土を取って平らにした土地に住宅を建てられるようにすれば、まさに一挙両得。
何せ高いところに住宅を建てられるような平らな土地が少ないのですから、期待されているようです。
陸前高田は、平野には何もなくて、市役所も郵便局も商店もみな小高いところに建てたプレハブの建物で仕事をやっています。
その日のお昼は、市役所からちょっと下りた所にあるプレハブ商店街の「やぶや」さんで、冷やし天ぷらそばを食べました。
だいぶ遅いお昼だったのですが、店に入るとまだたくさんの人が食事中でした。
ここを薦めてくれたのは、気仙沼の屋台村でふかひれラーメンやふかひれスープを売っていたお店の男性です。
私は大盛のそばでしたが、盛りが多めで汁も美味しかったです。汁の入れ物がやはり岩手県の蕎麦屋らしく塗りものの平たいおわんで、天汁も兼ねています。海苔が大胆にちぎってのせてありますが、上品なものの何倍もの量でした。
お腹がいっぱいになったところで、隣のお菓子屋さんでアイスバウムクーヘンを調達し、デザートを食べ食べ海岸の「一本松」まで30分の道のりを歩いて行きました。
(続く)