スリランカの旅 その3 (シーギリヤ・ロックへ)

旅程2日目。

行く前からちょっと不安材料だったのが、この日のシーギリアロック。

その理由は、山登り。しかも1200段ある階段を昇りつめなくてはならないのです。

 

専用バスで二ゴンボから北東へ。内陸へ入っていきます。

途中、ガイドさんがバスを停めて果物を買って食べさせてくれました。

 

 バナナとマンゴーとパパイヤです。

 写真は載せてませんが、オリーブの実もありました。固くて美味しさは感じません

が、こちらの方は料理にも使うそうです。

 バスの中で手軽なバナナを食べましたが、ただ甘いだけでなく酸味が感じられバナナ

もフルーツなんだなと思いました。

 トイレ休憩で立ち寄った食堂。

 建物を取り囲むように素敵な花が下がっていました。

 

 左はその紫の花をアップしたもの。

 裏手に回ると小さな小川があり、たくさん小鳥が来ていました。写真を撮ろう

としましたが、すぐ動くので取れたのはこれだけ、しかも後ろ向き。

 ハチドリも来ていたのに・・・・・

 

 お昼の写真がありませんが、観光で立ち寄る食堂はみんなホテルと同じブッフェ形

式。覚えているのは、飲み物として注文したマンゴージュース。生ですから濃厚で印象

に残るくらい美味しい。しかも日本円で200円くらい。

 

 いきなりシギリア・ロック。正しくは、シーギリアと伸ばします。

 密林の中に突然と現れる岩山です。

 スリランカ旅行のパンフレットや写真には必ず登場します。

 この岩山は、古くは仏教僧の修験場だったそうですが、5世紀後半ここに宮殿が作ら

れたと言われています。

 

 なんでこんな岩山の上にわざわざ宮殿を造ったのか普通では考えられません。

 ここから北の方向にあるアヌラーダブラを統治していた王様だった父親を殺し、

その地位についた長男が、弟に攻められるのを恐れて造ったのが

この岩山の宮殿だそうです。

 どこにでもある王家の争いかもしれませんが、ちょっと特異です。

 

 遠くから見ているとこんな直立した岩山に登れるのだろうかと疑問でしたが

ちゃんと階段状の道がついていました。

 この堀は、登り口の手前にありますが、日本のお城の掘割りと同じで攻められないよ

うにと造られたものらしく、ワニが放されていたと聞きました。

 

 私が登って行く間ずっと付いて離れなかった人がいました。

 話には聞いていましたが、登るのに大変そうな人に寄り添って、

付き添って体を支えることを仕事にしている有償ボランティアです。

必要ないと言ってもずっと付いてくるのです。

 

 途中で息が上がり苦しくなりました。

 かの有名なシーギリア・レディの壁画のところへ行くためには

急な螺旋階段を上らなくてはならないため、あきらめて日陰を見つけて少し休憩し

ました。

 

 自分の目でオリジナルを見られなかったのは残念でしたが、

下にある博物館内にそのレプリカがあったので、その一部をご紹介します。

 上半身裸で冠をつけ首飾りなど装飾品も派手な女性は、身分が高く、上着を纏って

いる人は、お付きの女性ではないかという話です。

 まず女性のウエストの細さにびっくり。メリハリのある体がそのころの美しい女性

の価値だったのでしょうか。

 オリジナルの壁画のことが話題にならなかったので違いがあったのかどうかわ

かりませんが、もう1500年以上前のものなのに、色鮮やかなので驚きました。

  (オリジナルは、現在写真が撮れません。)

 私ばかりでなく、ここは登ってきた人がほとんど小休止する広場です。

 動物の足の爪が見えるでしょうか。今は、前足部分しか残っていませんが、

かつては大きく口を開けた頭部もあり、登って行くと口の中に吸い込まれるような

形になっていたと言われています。

 シンハラ語で、ライオンは「シン」、のどは「ギリヤ」なので、

ライオンの喉「シンハギリヤ」が後に「シーギリヤ」となったと言われています。

 ここからは、頂上まで鉄の階段が続きます。

 ああ、まだ階段が続くのかとちょっとめげましたが、

添乗員さんが「大丈夫!」と背中を押してくれたので、歩き始めました。

 一段一段の段差が低く抑えてあったので

割合楽に頂上まで辿り着けました。

 

 どちらを見ても、密林です。さわやかな風が吹き渡ります。

 とにかく不安材料だった山登りにチャレンジして頂上に立てた喜びに

満たされました。一人一人高みに立って写真を撮ってもらったのですが

年甲斐もなく「やったー」と両手を挙げて叫んでしまいました。

 

 ゆとりがなくて、一つ一つの宮殿の跡の写真はありません。

 王宮、兵舎、住居などが立っていたそうですが、

今はプールのくぼみくらいしか見られませんでした。

 

 弟が攻め込んで戦いに敗れる日まで、約11年間

この岩山の頂上で過ごしたのだそうです。

 その後王宮は、アヌラーダブラに移され、このシギーリア・ロックは使われることも

なく、約1400年後のイギリスの植民地時代になってから発見されました。

 

 ずっと付き添ってきてくれた自称ボランティアの男性は、下りもずっとそばに付いて

くれました。最後にプライベートなことも聞いたら、年は46歳、今日の労働の

対価は、ガイドさんと交渉して1500ルピー。

 これがこの日の日当だ。高いのか安いのかわからないけれども、

ここへ観光に来る人は日本人だけではない。いろんな国の言葉を操り、年寄をターゲッ

トにした押し売りボランティア。

 私は、かもられたわけではあるけれど、不安定な仕事だなとちょっと複雑な思いがし

ました。

 

 (つづく)

スリランカの旅 その2 (ジェットウィングブルーホテルの朝)

 

 朝の散歩。

 前日は、真っ暗で何も見えなかったので、

目の前は海だったことがちょっとした驚きでした。

 ヤシの幹に動くものがあります。何だろうと近づくと、トカゲでした。

 長さ30㎝くらい。日本にいるトカゲよりもちょっと大きめでりっぱな姿です。

 追いかけると逃げていくくらいで襲ってくるようなことはありません。

 朝からせわしく鳴いていたのは、カラスです。

 体は、日本のものより一回り小さく嘴も細くて華奢ですが、

鳴き声はいずこも同じ、「カーカーカー」でした。

 地上をちょろちょろ動き回っていたのは、リスでした。

 これも名前はわかりませんが、シマリスの仲間でしょう。

 みずみずしいプルメリアの花。

 地上に降りてきた天使のような花。

 ネムノキは、マメ科の植物なのに、この花の実は大きなイチジクのような大きさのも

のでしたので、ちょっと調べてみました。

 和名は「ゴバンノアシ」。(碁盤の脚に似た実がつくとことからついた名前)

 石垣島などに咲くサガリバナの仲間だそうです。

 夜行性なので朝になると落花するようです。

 漁船に描かれている絵。

 色遣いといい、デザインといい、ビビットスリランカらしい。

 朝の食事もブッフェスタイル。

 この頃は、朝は食べないことが多いのだけれど、旅行中は少なめにしていただく。

 

 日本から添乗してきているインド人の旅行社の方から

「シンプルだけど美味しいよ。」

と勧められた「エッグホッパー」。

米粉をといて焼いただけなのに、ぱりぱりして香ばしい。

(つづく)

スリランカの旅 その1(成田からコロンボへ)

 コロナのパンデミックでもう海外へ旅行へ行くことはないと思っていたのですが、

ここ2年ヨガ教室へ通うようになったことがきっかけで、先生の33周年のお祝いの旅に

私のような年寄りにもお誘いがかかり行くことになったのです。

 

 パスポートも3年前に切れていたので、12月のパスポートの取得から始まり

あれやこれやで3か月くらい準備の時間があったにもかかわらず、

あっという間に旅行の日を迎えることになりました。

 

 3月23日、Yキャットから6時15分に出発し成田へ。成田空港を午前11時10分に離陸。

 スリランカ航空ですので、コロンボまで直行便で約9時間半で着きます。

 時差は、3時間半。

 日本時間でいうと、夜の8時半ごろ到着です。

 

 飛行機の尾翼のマークは、クジャクを緑と赤とオレンジ色でデザインしたものだと

思いますが、なかなかおしゃれです。

 飛行機は、ほぼ満席。結構需要があるのだと思いました。

 バンダラナイケ空港へ着くと、現地の旅行社からお迎えがあり、

さっそく歓迎のレイを首にかけてもらいました。

 何の花か確かめてはいないもののいい香りが鼻をくすぐりましたので、

ピンクのプルメリアではないかと思います。(モデルさんは、私と同じ教室の人です)

 

 空港からお迎えのバスで約1時間余り、二ゴンボのホテルへ到着。

 ホテルのフロントでは、幸運がありますように との意味があるとか聞きましたが、

 オイルにつけた芯に火をつける儀式を一人一人やりました。

 

 そして、この日の夕食がそれから始まりました。機内食は押さえておきましたが、

さすがに日本時間10時近くですから、胃がびっくり!

 にもかかわらず、美しいチョコレートのデザートがあったので

しっかり食べてしまいました。

 部屋に着くと、もう12時近くですからお風呂に入ってすぐにぐっすりでした。

 

 (これからしばらく旅の話がつづきます。)

 

丘の上の本屋さん (イタリアユニセフとの共同作品)

 昨日「丘の上の本屋さん」を観に行ってきた。

 私としては久しぶりの劇映画だ。

 

 見晴らしのいい丘に建つ古本屋さんの主人「リベロ」とお客さんとの交流

が描かれた大変シンプルな映画。

 

 広場には古本屋とカフェが並んで立っている。

 丘の上からは、小高い山並み、少し紅葉した木々、刈り取られていく作物畑、ほかに

は何もないけれど、素晴らしい景色だ。

 

 古本屋の入口に出してある木箱に本が入っている。

 ある日一人の少年がやって来て本を覗いているのを見て、リベロが声をかける。

 「漫画は好きか?」と尋ねると

「好きだけれど買うことはできない。」と答える。

 

 リベロは、「読み終わったら、返してくれればいいから。」と

その少年に1冊の本を貸し与える。

 

 少年の名は、「エシエン」、「6年前にブルキナファソから来た。」

と、自己紹介する。この時エシエンが選んだ本は、「ミッキーマウス」。

ブルキナファソは、アフリカのサハラ砂漠の南側にある世界でも最貧国の一つだそう

だ。)

 

 

 次の日も、その次の日も、借りては返す。

 リベロは、本をこよなく愛する老人。好奇心の強い利発な少年に本を選び

その本についての感想を聞くことが彼の楽しみになっていく。

 

 漫画を卒業して初めての読み物は、何だろうと思っていたところ、

最初に選んだのは、「ピノキオの冒険」だった。

 次々にリベロが選んで渡す本に興味がそそられた。

 

 店には、隣のカフェの青年、元大学教授、家政婦の女性、ごみ箱からめぼしい

古本を拾ってきては売りつける移民労働者などいろんな人がやってくる。

 彼らとの会話のやり取りも見逃せない。

 最後の方に「なぞなぞ好きの男」として登場してくるのは、この映画の監督脚本の

「クラウディオ・ロッシ・マッシミ」。

 時々映画に登場するらしい。

 

 リベロとは、イタリアの言葉で、自由を意味する。

 古書店の「発禁の棚」には「チャタレイ夫人の恋人」などが表紙を前に向けて

並べられている。

 その本たちは、多くの人に見てもらいたいだけで売ることはしない。

 本は、自由でなければならないというリベロの信念が貫かれている。

 

 リベロは机の上に置いてあるオルゴールを時々鳴らす。

 映画の筋には直接関係はないのだが、この音がリベロの人柄を表しているようで

このせわしい世の中の動きとは正反対の緩やかな空気を感じた。

 

 舞台となった場所は、イタリアの中部「最も美しい村」の一つである

「チヴィテッラ・デル・トロント」。イタリアは、なぜか心惹かれる。

 

 最後に古書店をめぐる時に思い出してほしいことばがあったのでご紹介

 

  持ち主が代わり、新たな視線に触れるたび、本は力を得る。

          カルロス・ルイス・サフォン「風の影」(2001)

(ジャックアンドベティで21日まで上映予定)

「生きる」 大川小学校 津波裁判を闘った人たち

  先週の日曜日、  横浜シネマリンで「生きる」の映画を観てきました。

 

「生きる」大川小学校 津波裁判を闘った人たち

 

 東北大震災から12年目を迎え、映画館でも何本か関連の映画が上映されます。

 残念なのは、大手の映画館は宣伝費をかけても儲かる映画しか上映しないので、震災

関連の映画は、ほとんど話題にも載ってきません。

 この映画が上映されるということを私が知ったのは、名画座のポスターでした。

 

 この「生きる」という映画は、2011年3月11日に宮城県石巻市北上川河口

近くにあった「大川小学校」の児童74名、教師10名が津波の被害で亡くなったこと

について裁判までのいきさつを映像化したものです。

 

 私が大川小学校のことを知ったのは、2012年6月、震災から1年以上過ぎた頃

のことです。一関から気仙沼、南三陸を通り震災の爪痕を見ながら、石巻市にある追分

温泉を訪ねました。

 前の年は、被災者の宿泊先になり、水が不自由なためお風呂に入れない人々のために

温泉を開放していました。

 この温泉のことは、ある方のブログで知りました。2012年、やっと旅行者が泊れ

るようになったというので行ったのです。

yporcini.hateblo.jp

 チェックアウトをするときに、フロントにいらした女性がこの辺りに住む被災者の方

で、その方が大川小学校のことを地図まで描いて教えてくれたのです。

 私にとって、それがいつまでも宿題のように心に残っていましたが、2019年

の6月、ようやく大川小学校まで行くことができました。

 

yporcini.hateblo.jp

yporcini.hateblo.jp

 

 津波が押し寄せ北上川を遡ってくるまでにかなりの時間(51分)があったのに、子

どもたちは校庭に長く座ったまま、裏山に避難せず堤防の一番高いところへ(三角地

帯と呼ばれているところ)津波到達の数分前に移動するもすぐに津波に飲まれて多くの

命が失われたのです。

 

 親たちは、この間の事情を知りたくて石巻教育委員会や、宮城県教育委員会との

話し合いを求めるも、なかなか真相がわからず、しかも話し合いの中でうそや隠ぺいも

ありで不信感を募らせました。

 

 結局親たちは、しっかりとした責任の所在を明らかにするには裁判に訴えるしか方法

がないということで、提訴にふみきったということです。

 

 この場合の裁判というのは、国家賠償責任を問うもので子どもの命を金額で提示

することになるのだそうです。親が子どもの命を金額にすることにも違和感があったろ

うし、被害者の中で提訴するものと、しないものに分かれることになり、そこに分断が

生じたのも辛かったのではないでしょうか。

 

 この裁判を担ったのは、二人の弁護士のみ。親たちは、子どもの代理人としていろい

ろな証拠集めに奔走し、しかもいろんな脅迫や偏見にもさらされながら裁判を支えまし

た。

 

 この裁判は、高裁で勝訴、最高裁石巻市宮城県の上告を棄却し、2019年10

月10日高裁判決が確定しました。

 高裁の裁判長は、

「学校が子どもの命の最後の場所になってはならない。」

という言葉で締めくくったということを聞き、この裁判をやった親たちは、子どもの命

を無駄にせず、これからに生かすことができたと納得されたのではないかと思いまし

た。

 子どもを亡くした親の悲しみが癒えることはありませんが、真相を知りたいという個

としての親の気持ちがもっと広く大きなものへと昇華したようで清々しい気持ちになり

ました。

 

 映画上映後、監督の寺田和弘さんと、主題歌を歌われた廣瀬 奏(かな)さんのライ

ブとトークがありました。

 主題歌の「駆けて来てよ」は、弁護士として支えてきた「吉岡和弘」さんの作詞作曲

と聞いて弁護士さんなのにすごい人だなと驚きました。

 廣瀬さんは、仙台でミュージカルなどの活動をされているそうですが、小学生だった

時に同じ劇団で仲良しだった友だちを震災で亡くした悲しい経験をお持ちだそうです。

 

 シネマリンでは、今月31日まで上映しています。

 

東北大震災から12年

 ご無沙汰しています。

 これは、昨日の写真です。

 12年前の東北は、雪交じりの寒い日だったと聞いていますが、

昨日の横浜は、温かくて長袖の綿のシャツで歩けました。

 

 地下鉄を下りて地上に上がると、見ごろになった桜が

たくさんのヒヨドリを招き寄せていました。

 この桜は、オオカンザクラという名前らしいです。

 

 ヒヨドリと桜を写そうとしていたら、

ふさふさのしっぽが見えるではありませんか。

 近頃では珍しくもなくなりましたが、サクラを食べているリスは初めて見ました。

 

 

 昨日は、3月11日。

 新橋での用事を済ませ午後2時過ぎに帰ってきました。

 本屋さんから注文した本が入荷したとの連絡をもらっていたので、

サクラとリスを見た後、本屋さんへ寄りました。

 

 女主人は私が注文していた本にカバーを付けながら

「もうすぐ2時46分だから、急がなくちゃ。」

というので、私も気が付いて

「一緒に黙とうするよ。」

というと、

「義父が福島の大熊町の人で、震災で逃げる時にアクシデントがあって、

亡くなったのよ。」

との話。

 

 私が来る前からいた若い男性も帰ろうとしないので、

結局本屋の女主人と若い男性と私と三人で

ラジオの音に合わせて黙とうしました。

 

 若い男性の常連さんとは初めて会ったのですが、

二言三言言葉を交わしただけで、ずいぶん前から知っているような

気持ちになりました。

 

 本はなるべく図書館でという主義ですが、

買いたい本があると必ずその本屋さんで頼むようにしています。

 本屋の主人が人と人をつないでくれているようなそんな本屋さんです。

 12年目の3.11は、心が温かくなる日になりました。

 

 

 

ハートカフェ

 (カテリーナさんのファーストアルバムを購入、そのカバー写真です。)

 

  2月4日に開かれたパルシステムの平和国際フェスタの報告です。

 1月に前回の三浦半島のEM研究会の畑へ行くのと同じ頃、ハートカフェの募集があ

りました。くじ運の悪い私のことだからきっと外れだなと思いながら申し込みをしたと

ころ、ウクライナバンドゥーラの演奏会とアフガニスタンの現実をアニメ化した「ブ

レッドウィナー」の映画にも参加できるというお知らせが来たので、緑区の区民文化セ

ンターまでいそいそ出かけました。(畑にも行けたので、今年は運が上向き!?)

 

 ハートカフェも3年ぶりの開催です。ステージを使った催し物ののほか、会議室やホ

ワイエを使ったワークショップや物品の販売も行われました。

 

 この日、一番の目的は、日本で二人しかいないウクライナの楽器の演奏者の演奏を聴

くことでした。演奏者は、カテリーナさんという美しい女性です。

 

 カテリーナさんは、チェルノブイリ原発の事故があった年に生まれ、非難を余儀なく

された方で、避難先で6歳の時に音楽団に入り、世界中を回った経験があるそうです。

 日本にも来たことがあって、日本が大変気に入り19歳の時に、本格的に日本を拠点

にして音楽活動を始めたのだと自己紹介されていました。

 

 その楽器は、バンドゥーラ

 バンドゥーラという楽器は、重さが8キロ、大きな弦楽器です。弦楽器と聞くとギタ

ーなど弦を指で押さえて音を変化させるのではないかと思いますが、この楽器は、ギタ

ーというよりピアノのような鍵盤楽器に近い構造になったいるような気がしました。

 

 ということで、65本も弦があり5オクターブの音を出せます。弦それぞれが違う音

になっているそうです。

 ただ、向かって左側の長い部分のベースになる音と右側のねじがついている部分の音

の出し方は違っているように思いました。たくさんの弦を引きこなすのは見ているだけ

でも大変だなと思います。

 

 音色は、高い金属的な音で、雰囲気としてヨーロッパの古楽器リュートに雰囲気が似

ている気がしました。楽器の演奏だけでなく、歌を歌いながら演奏するということが多

いことからも日本の琵琶を思い浮かべたりもします。

 

 歌声も素晴らしいソプラノでヨーロッパの宗教曲を聴いている感じがしました。

 いろんな歌を弾き語りで披露してくれましたが、一番心に響いたのは、日本の「ふる

さと」の歌です。いろんなところで「ふるさと」は歌われますが、ふるさとウクライナ

がどんなに悲惨な状況になっているかを会場にいる観客も避難を余儀なくされているウ

クライナの人も共有できる歌だったからだと思います。

 

 6日に起きた地震で大きな被災をうけたトルコ、シリア、それに映画「ブレッドウィ

ナー」の舞台になっているアフガニスタン、独裁軍事政権下で苦しむミャンマー・・・

世界には、ふるさとを追われ、命を守ることができない人がたくさんいます。

 

 こうした機会を得て、自分のできることをやっていかなくてはと深く心に刻みまし

た。